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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author = [[柴山全慶]]、[[秋月龍みん|秋月龍珉]]他|year = 1967|title = 講座 禅 第二巻 禅の実践|publisher = 筑摩書房|ref = {{SfnRef|講座禅第二巻|1967}} }}
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2020年8月16日 (日) 08:51時点における版

雪峰義存
822年 - 908年
諡号 真覚大師
生地 泉州南安県
宗派 禅宗
寺院 西禅寺、雪峰山雪峰寺
芙蓉霊訓徳山宣鑑
弟子 玄沙師備雲門文偃長慶慧稜鼓山神晏保福従展
著作 『雪峰眞覺禪師語録』
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雪峰義存(せっぽう ぎぞん、822年長慶2年) - 908年6月3日開平2年5月2日))は、中国末から五代真覚大師。俗姓は曾。泉州南安県の出身。

生涯

仏教の熱心な信者の家庭に生まれ、幼少時より僧侶への道を目指し、9歳の時に出家を志したが、両親は許さず、後に12歳になって叔父に連れられて行った莆田玉澗寺の慶玄律師のもとで沙弥となった。

17歳で剃髪し、その後、各地を遊方し、幽州の宝刹寺で具足戒を受ける。会昌の廃仏に遭い、儒学者に変装して帰宗智常の弟子である芙蓉霊訓に師事した。

芙蓉霊訓の没後は雲水として各地を巡歴し、洞山良价投子大同に師事したが大悟には至らず、洞山の命令で徳山宣鑑に師事した。

しかし、数年しても開悟出来ず、そこで親しくなった欽山文邃巌頭全奯と共に再び巡歴の旅に出た。

旅の途中、雪に足止めされて数日間同じ場所で坐禅を続けたが、巌頭に諭されて悟りを開き、徳山宣鑑の法嗣となる。

その後、当時評判の高かった臨済義玄を尋ねに行こうとしたが、途中で出会った僧侶に臨済の死を知らされ、そこで2人と別れて故郷の福建に戻った。

福建に戻ってからは、福州閩県の雪峰山に住し、40年余にわたり化導に励み、観察使の李景や王審知の帰依を受けて教団が繁栄し、その拠点となった雪峰寺には常時1,500人もの僧侶が修行し、筆頭弟子の玄沙師備を始め、雲門宗の開祖となった雲門文偃長慶慧稜鼓山神晏保福従展などの優れた弟子を数多く輩出し、五代時代において最大の仏教教団を形成した。

僖宗(『景徳傳燈録』では懿宗)より真覚大師の号を賜わる。享年87、法臘59。

略歴

思想

雪峰は悟りを開いたのが44歳と大変遅かったので修行者の苦心に同情的であり、問答の相手一人一人に合わせた適切でわかりやすい指導を行った。

逸話

  • 修行時代には典座修行僧食事を作る役職)を自ら志願し、いつも飯杓子を持って歩いていた[1]僧堂典座の役職の部屋を表す典座寮は、またの名を雪峯寮という[1]
  • 一人の雲水(修行僧)が雪峰義存の師である徳山宣鑑に弟子入りしようとして渓流に添って上って行くと、上流から野菜の切れ端が流れて来たので、「一筋の野菜といえど粗末にするようなところはろくな道場ではあるまい」と思い山をおりかけると、一人の(雪峰義存)がこの流菜を追いかけて下ってきたことから、雲水は思い直して徳山宣鑑に入門した[2]
  • 雪峰義存が徳山宣鑑もとで典座の役にあったとき、毎晩何やら火に鍋をかけてぐつぐつ煮て、彼が一人でうまいものをこっそり食べているのではないかと噂が立った[3]徳山宣鑑がある夜雪峯の部屋に行くと噂の通りであったが、鍋の中身はとても食べられたものではなかったので理由を問うと、「皆が野菜の切端を粗末にするので流しに袋を受けて、一日たまったものを煮て食べております」という[3]。このことから徳山も感心し、以後ますます大衆が心服したという[3]

語録

  • 『雪峰眞覺禪師語録』2巻

三登九至

弟子

玄沙師備雲門文偃長慶慧稜鼓山神晏保福従展安国弘韜金輪可観

伝記

脚注

出典

参考文献


師:徳山宣鑑禅宗弟子:玄沙師備雲門文偃