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「崔孝暐」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[崔挺]]の子として生まれた。若くして長者の風があったと評される。彭城王[[元キョウ|元勰]]が[[定州]][[刺史]]となると、孝暐は召されて主簿となった。[[冀州]]安東府外兵参軍を初任とし、員外散騎侍郎・寧朔将軍・員外散騎常侍を歴任した。[[528年]]([[武泰 (北魏)|武泰]]初年)、南方の少数民族の首長の李洪が諸族を率いて反乱を起こすと、孝暐は持節を受けて別将となり、都督の[[李神軌]]の麾下で反乱の鎮圧にあたった。[[河陰の変]]で[[爾朱栄]]が朝士の多くを殺害すると、孝暐は弟の[[崔孝直]]とともに一家を率いて定陶に避難した。[[孝荘帝]]の初年、召されて通直散騎常侍となり、征虜将軍の号を加えられた。まもなく[[趙郡]][[太守]]に任じられた。[[葛栄]]の乱の後、趙郡では民衆や家畜が離散し、農業生産は激減し、児童売買が横行する惨状にあった。孝暐は流民の定住をうながし、農業や畜産の再建を助け、学校の設立をおこなうなどの施策につとめた。趙郡で死去した。享年は49。通直散騎常侍・平東将軍・[[瀛州]]刺史の位を追贈された。[[諡]]は簡といった。さらに安北将軍・定州刺史の位を贈られた。
[[崔挺]]の子として生まれた。若くして長者の風があったと評される。彭城王[[元勰]]が[[定州]][[刺史]]となると、孝暐は召されて主簿となった。[[冀州]]安東府外兵参軍を初任とし、員外散騎侍郎・寧朔将軍・員外散騎常侍を歴任した。[[528年]]([[武泰 (北魏)|武泰]]初年)、南方の少数民族の首長の李洪が諸族を率いて反乱を起こすと、孝暐は持節を受けて別将となり、都督の[[李神軌]]の麾下で反乱の鎮圧にあたった。[[河陰の変]]で[[爾朱栄]]が朝士の多くを殺害すると、孝暐は弟の[[崔孝直]]とともに一家を率いて定陶に避難した。[[孝荘帝]]の初年、召されて通直散騎常侍となり、征虜将軍の号を加えられた。まもなく[[趙郡]][[太守]]に任じられた。[[葛栄]]の乱の後、趙郡では民衆や家畜が離散し、農業生産は激減し、児童売買が横行する惨状にあった。孝暐は流民の定住をうながし、農業や畜産の再建を助け、学校の設立をおこなうなどの施策につとめた。趙郡で死去した。享年は49。通直散騎常侍・平東将軍・[[瀛州]]刺史の位を追贈された。[[諡]]は簡といった。さらに安北将軍・定州刺史の位を贈られた。


子に[[崔昂]]があった。
子に[[崔昂]]があった。

2020年8月16日 (日) 07:14時点における版

崔 孝暐(さい こうい、生没年不詳)は、北魏官僚。『魏書』は名を孝暐とし、『北史』は名を孝偉とする。は敬業。本貫博陵郡安平県

経歴

崔挺の子として生まれた。若くして長者の風があったと評される。彭城王元勰定州刺史となると、孝暐は召されて主簿となった。冀州安東府外兵参軍を初任とし、員外散騎侍郎・寧朔将軍・員外散騎常侍を歴任した。528年武泰初年)、南方の少数民族の首長の李洪が諸族を率いて反乱を起こすと、孝暐は持節を受けて別将となり、都督の李神軌の麾下で反乱の鎮圧にあたった。河陰の変爾朱栄が朝士の多くを殺害すると、孝暐は弟の崔孝直とともに一家を率いて定陶に避難した。孝荘帝の初年、召されて通直散騎常侍となり、征虜将軍の号を加えられた。まもなく趙郡太守に任じられた。葛栄の乱の後、趙郡では民衆や家畜が離散し、農業生産は激減し、児童売買が横行する惨状にあった。孝暐は流民の定住をうながし、農業や畜産の再建を助け、学校の設立をおこなうなどの施策につとめた。趙郡で死去した。享年は49。通直散騎常侍・平東将軍・瀛州刺史の位を追贈された。は簡といった。さらに安北将軍・定州刺史の位を贈られた。

子に崔昂があった。

伝記資料

  • 『魏書』巻57 列伝第45
  • 『北史』巻32 列伝第20