「崔鑑」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
7行目: | 7行目: | ||
*崔合(字は貴和、桐廬県子、中書学生、主文中散、太尉諮議参軍、[[常山郡]]太守) |
*崔合(字は貴和、桐廬県子、中書学生、主文中散、太尉諮議参軍、[[常山郡]]太守) |
||
*[[崔秉]] |
*[[崔秉]] |
||
*崔習(字は貴礼、司徒主簿、彭城王[[ |
*崔習(字は貴礼、司徒主簿、彭城王[[元勰]]の下で開府属、[[幽州]]長史、[[博陵郡]]太守、[[河東郡 (中国)|河東郡]]太守) |
||
*崔氏([[陸叡]]の妻) |
*崔氏([[陸叡]]の妻) |
||
2020年8月16日 (日) 07:14時点における版
崔 鑑(崔鑒、さい かん、生没年不詳)は、北魏の文人・官僚。字は神具。本貫は博陵郡安平県。
経歴
崔綽(崔琨の兄の崔遭の子)の子として生まれた。文学で知られ、中書博士から侍郎に転じた。延興年間、孝文帝の命を受けて斉州におもむき、風俗を監察し、行兗州事をつとめた。功績により桐廬県子の爵位を受けた。奮威将軍・東徐州刺史として出向した。崔鑑は新たに北魏に帰順した人々を安心させるため、州民のうちで老齢の者を仮の太守や県令とするよう上申して、許可を受けた。また州内の銅冶で農具を作らせ、軍民に利益を得させた。死去すると、冠軍将軍・青州刺史の位を追贈され、安平侯に追封された。諡は康といった。