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晋の[[頃公 (晋)|頃公]]の子として生まれた<ref name="shinseika">『史記』晋世家</ref>。[[紀元前512年]]6月、頃公が死去する<ref>『[[春秋]]』昭公30年</ref>と、後を嗣いで定公が晋公として即位した<ref name="shinseika"/>。[[紀元前510年]]、[[周]]の[[敬王 (周)|敬王]]が富辛と石張を晋に派遣して、[[洛陽市|成周]]の城壁修築を依頼した。定公はこれを受け入れ、[[士弥牟]](士景伯)の案をもとに諸侯を動員して工事がおこなわれ、[[韓不信]]が監督した<ref>『春秋左氏伝』昭公32年</ref>。[[紀元前509年]]、晋の[[魏舒]]が諸侯の大夫を狄泉に召集して、成周の城壁を修築させた。士弥牟が[[宋 (春秋)|宋]]の仲幾を捕らえて京師に送った<ref>『春秋左氏伝』定公元年</ref>。[[紀元前507年]]、晋軍は平中で[[鮮虞]]に敗れ、晋将の観虎が捕らえられた<ref>『春秋左氏伝』定公3年</ref>。[[紀元前506年]]、晋・[[斉 (春秋)|斉]]・[[魯]]・宋・[[蔡]]・[[衛]]・[[陳 (春秋)|陳]]・[[鄭]]などの諸国が召陵に会盟し、[[楚 (春秋)|楚]]に対する進攻を決議した。晋の[[士鞅]](范献子)と衛の[[孔圉]](孔文子)が軍を率いて鮮虞を攻撃した<ref>『春秋左氏伝』定公4年</ref>。[[紀元前503年]]、周の儋翩が儀栗に入って反乱を起こした。定公は都から逃れた周の敬王を支援して晋軍を派遣し、敬王を王城に護送した<ref>『春秋左氏伝』定公7年</ref>。[[紀元前502年]]、晋の渉佗・成何らが衛の[[霊公 (衛)|霊公]]と鄟沢で会盟しようとしたが、霊公の怒りを買い、破談となった。士鞅が鄭に侵入し、蟲牢を包囲した。晋と魯の連合軍が衛を攻撃した<ref>『春秋左氏伝』定公8年</ref>。[[紀元前501年]]、魯の[[陽虎]]が晋に亡命してきた。斉と衛の連合軍が晋の夷儀を攻撃したが、晋軍が中牟を出立して、斉軍を撃破した<ref>『春秋左氏伝』定公9年</ref>。[[紀元前500年]]、[[趙鞅]]が衛を包囲した<ref>『春秋左氏伝』定公10年</ref>。[[紀元前497年]]、晋の[[范氏 (晋)|范氏]]と[[中行氏 (晋)|中行氏]]が趙氏の宮を攻撃し、趙鞅は晋陽に逃れた。[[智レキ|智躒]](智文子)・韓不信・[[魏侈]]が定公を奉じて范氏と中行氏を攻めた。范氏と中行氏は定公を攻撃して国人の反感を買い、敗北して[[朝歌]]に逃れた。趙鞅は絳に帰還した<ref>『春秋左氏伝』定公13年</ref>。[[紀元前496年]]、晋軍が范氏と中行氏の拠る朝歌を包囲した。晋軍が范氏と中行氏の軍を潞で破り、籍秦と高彊を捕らえた。また晋軍は鄭軍と范氏の軍を百泉で破った<ref>『春秋左氏伝』定公14年</ref>。[[紀元前494年]]、斉と衛が晋の范氏を救援するために[[邯鄲]]に出兵し、五鹿を包囲し、棘蒲を奪った<ref>『春秋左氏伝』哀公元年</ref>。[[紀元前493年]]、晋の趙鞅が衛の太子[[荘公蒯聵|蒯聵]]を送って戚に入城させた。鄭軍が范氏を支援したため、趙鞅が鄭軍と鉄で戦って撃破した<ref>『春秋左氏伝』哀公2年</ref>。[[紀元前492年]]、趙鞅が范氏と中行氏の拠る朝歌を包囲した<ref>『春秋左氏伝』哀公3年</ref>。[[紀元前491年]]、趙鞅が邯鄲を包囲し、邯鄲は降伏した。[[荀寅]](中行文子)は鮮虞に逃れ、趙稷は臨に逃れた<ref>『春秋左氏伝』哀公4年</ref>。[[紀元前490年]]、晋軍が柏人を包囲し、[[士吉射]](范昭子)は斉に逃れた。趙鞅が衛を攻撃した<ref>『春秋左氏伝』哀公5年</ref>。[[紀元前489年]]、晋軍が鮮虞を攻撃した<ref>『春秋左氏伝』哀公6年</ref>。[[紀元前488年]]、晋の魏侈が衛に侵攻した<ref>『春秋左氏伝』哀公7年</ref>。[[紀元前485年]]、趙鞅が斉を攻撃し、犁と轅を占領し、高唐の城郭を破壊した。趙鞅は頼まで進軍して撤退した<ref>『春秋左氏伝』哀公10年</ref>。[[紀元前482年]]、定公は[[呉 (春秋)|呉]]王[[夫差]]と黄池で会盟し、血を啜る順序を争った<ref>『春秋左氏伝』哀公13年</ref>。[[紀元前481年]]、趙鞅が衛を攻撃した<ref>『春秋』哀公14年</ref>。[[紀元前480年]]、趙鞅が衛に進攻した。定公は鄭を攻撃した<ref>『春秋』哀公15年</ref>。[[紀元前478年]]、趙鞅が衛を包囲した<ref>『春秋左氏伝』哀公17年</ref>。[[紀元前475年]]、定公は死去し、子の[[出公 (晋)|出公]]が晋公として即位した<ref name="shinseika"/>。 |
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2020年8月16日 (日) 06:59時点における版
定公 姫午 | |
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晋 | |
公(周制における爵位は侯) | |
王朝 | 晋 |
在位期間 | 紀元前512年 - 紀元前475年 |
都城 | 新絳 |
姓・諱 | 姫午 |
諡号 | 定公 |
没年 | 紀元前475年 |
父 | 頃公 |
定公[1](ていこう、生年不詳 - 紀元前475年)は、中国の春秋時代の晋の君主。姓は姫、名は午。
生涯
晋の頃公の子として生まれた[2]。紀元前512年6月、頃公が死去する[3]と、後を嗣いで定公が晋公として即位した[2]。紀元前510年、周の敬王が富辛と石張を晋に派遣して、成周の城壁修築を依頼した。定公はこれを受け入れ、士弥牟(士景伯)の案をもとに諸侯を動員して工事がおこなわれ、韓不信が監督した[4]。紀元前509年、晋の魏舒が諸侯の大夫を狄泉に召集して、成周の城壁を修築させた。士弥牟が宋の仲幾を捕らえて京師に送った[5]。紀元前507年、晋軍は平中で鮮虞に敗れ、晋将の観虎が捕らえられた[6]。紀元前506年、晋・斉・魯・宋・蔡・衛・陳・鄭などの諸国が召陵に会盟し、楚に対する進攻を決議した。晋の士鞅(范献子)と衛の孔圉(孔文子)が軍を率いて鮮虞を攻撃した[7]。紀元前503年、周の儋翩が儀栗に入って反乱を起こした。定公は都から逃れた周の敬王を支援して晋軍を派遣し、敬王を王城に護送した[8]。紀元前502年、晋の渉佗・成何らが衛の霊公と鄟沢で会盟しようとしたが、霊公の怒りを買い、破談となった。士鞅が鄭に侵入し、蟲牢を包囲した。晋と魯の連合軍が衛を攻撃した[9]。紀元前501年、魯の陽虎が晋に亡命してきた。斉と衛の連合軍が晋の夷儀を攻撃したが、晋軍が中牟を出立して、斉軍を撃破した[10]。紀元前500年、趙鞅が衛を包囲した[11]。紀元前497年、晋の范氏と中行氏が趙氏の宮を攻撃し、趙鞅は晋陽に逃れた。智躒(智文子)・韓不信・魏侈が定公を奉じて范氏と中行氏を攻めた。范氏と中行氏は定公を攻撃して国人の反感を買い、敗北して朝歌に逃れた。趙鞅は絳に帰還した[12]。紀元前496年、晋軍が范氏と中行氏の拠る朝歌を包囲した。晋軍が范氏と中行氏の軍を潞で破り、籍秦と高彊を捕らえた。また晋軍は鄭軍と范氏の軍を百泉で破った[13]。紀元前494年、斉と衛が晋の范氏を救援するために邯鄲に出兵し、五鹿を包囲し、棘蒲を奪った[14]。紀元前493年、晋の趙鞅が衛の太子蒯聵を送って戚に入城させた。鄭軍が范氏を支援したため、趙鞅が鄭軍と鉄で戦って撃破した[15]。紀元前492年、趙鞅が范氏と中行氏の拠る朝歌を包囲した[16]。紀元前491年、趙鞅が邯鄲を包囲し、邯鄲は降伏した。荀寅(中行文子)は鮮虞に逃れ、趙稷は臨に逃れた[17]。紀元前490年、晋軍が柏人を包囲し、士吉射(范昭子)は斉に逃れた。趙鞅が衛を攻撃した[18]。紀元前489年、晋軍が鮮虞を攻撃した[19]。紀元前488年、晋の魏侈が衛に侵攻した[20]。紀元前485年、趙鞅が斉を攻撃し、犁と轅を占領し、高唐の城郭を破壊した。趙鞅は頼まで進軍して撤退した[21]。紀元前482年、定公は呉王夫差と黄池で会盟し、血を啜る順序を争った[22]。紀元前481年、趙鞅が衛を攻撃した[23]。紀元前480年、趙鞅が衛に進攻した。定公は鄭を攻撃した[24]。紀元前478年、趙鞅が衛を包囲した[25]。紀元前475年、定公は死去し、子の出公が晋公として即位した[2]。
脚注
- ^ 『史記』晋世家、『春秋左氏伝』哀公13年ほか伝世文献はいずれも定公とする。『清華簡』「繋年」18章は簡公としている。
- ^ a b c 『史記』晋世家
- ^ 『春秋』昭公30年
- ^ 『春秋左氏伝』昭公32年
- ^ 『春秋左氏伝』定公元年
- ^ 『春秋左氏伝』定公3年
- ^ 『春秋左氏伝』定公4年
- ^ 『春秋左氏伝』定公7年
- ^ 『春秋左氏伝』定公8年
- ^ 『春秋左氏伝』定公9年
- ^ 『春秋左氏伝』定公10年
- ^ 『春秋左氏伝』定公13年
- ^ 『春秋左氏伝』定公14年
- ^ 『春秋左氏伝』哀公元年
- ^ 『春秋左氏伝』哀公2年
- ^ 『春秋左氏伝』哀公3年
- ^ 『春秋左氏伝』哀公4年
- ^ 『春秋左氏伝』哀公5年
- ^ 『春秋左氏伝』哀公6年
- ^ 『春秋左氏伝』哀公7年
- ^ 『春秋左氏伝』哀公10年
- ^ 『春秋左氏伝』哀公13年
- ^ 『春秋』哀公14年
- ^ 『春秋』哀公15年
- ^ 『春秋左氏伝』哀公17年
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