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2020年8月16日 (日) 06:53時点における版
避諱(ひき)とは、目上の者の諱を用いることを忌避する、中国など東アジアの漢字文化圏にみられる慣習である。二字名の場合にどちらか一字を忌避することを偏諱(へんき)という。この項では中国の避諱を中心に記述する。
概要
中国では古来、親や主君などの目上に当たる者の諱(本名)を呼ぶことは極めて無礼なことと考えられており(実名敬避)、特に皇帝およびその祖先の諱については、時代によって厳しさは異なるが、あらゆる臣下がその諱を口にしたり書いたりすることを慎重に避けた。ある王朝の皇帝に関する避諱の範囲はその時代のあらゆる言語表現に及び、例えば、避諱に触れる文字を含む人名や地名があったときには適宜諱に当たらない名前に改められ、更にはその諱字に通う音の字を改めること(嫌名(けんめい))さえも行われた。唐の太宗のように避諱を免ずる詔を下す君主もいた(太宗の諱が「世民」であり、いずれも平易・頻用の字であったため。後述)が、このような例はまれである。ただし、「世民」のように複数字の諱は、片方の文字だけならば使用しても差し支えないとされることが多かった。清の仁宗と宣宗は使用が禁じられると困る字を持つので即位と同時に改名している(それぞれ「永」→「顒(禺+頁)」、「綿」→「旻」へ改名)。
著名な例として、前漢の高祖の諱が「邦」だったために、漢の人々が「中邦」「相邦」を「中国」「相国」と言い換えた例、晋の文帝の諱が「昭」だったために晋の人々が歴史上の人物・王昭君を「王明君」と言い換えた例、清の聖祖康熙帝の諱「玄燁」を避け、世人が「玄孫」のことを「元孫」に言い換えた例や紫禁城の「玄武門」を「神武門」に改めた例が挙げられる。
ただし、現王朝の皇帝に関わる厳しい避諱と対照的に、前朝の皇帝の諱を世人が避けることはまずないと考えてよい[1]。そのため、文中に現れている避諱を利用して、ある書物が発行された年代を推定することが可能である。
皇帝でなくても儒教で聖人とされた孔子についても避諱が行われ、諱の「丘」を避けて「邱」に改めた例がある(人名の例では丘長春、地名の例では大邱(テグ))。
清朝が崩壊して以来、諱を避けるべき皇帝が中国には存在しなくなり、少なくとも国中がこぞって特定の文字を避ける必要はなくなった。
避諱の方法
- 改字
- 当該の文字を、同じような意味を持った別の文字あるいは語句に置き換える。親切な書物では避諱を行った文字を○で囲む例があったが、まれである。
- 空字
- 当該の文字自体を記さない。空欄にする場合、「□」の表記にする場合、「某」字や「諱」字に置き換える場合などの方法がある。
- 欠画
- 当該の文字の一画(通常は最終の一画)を記さない[2]。
実例
- 宰相を意味する「相邦」が漢の劉邦の諱である「邦」の字を含むことから、漢代以降は「相国」に改称された(これについては、漢より後の王朝も「相邦」に戻さなかった。)
- 楚漢戦争の説客、蒯通の諱は「徹」であったが、前漢武帝劉徹の諱を避けて「徹」と同義の「通」に差し替えられた(前漢後漢以降も現代にいたるまで訂正されずに定着している)。
- 前漢までの孝廉では、秀才があったが、後漢の光武帝劉秀の諱を避けて、茂才となった。
- 司馬遷や班固がそれぞれまとめた『史記』・『漢書』では、前漢の歴代の皇帝の諱をそれぞれの伝記(本紀)に記述せず、後世の歴史家の注釈によってはじめて諱が記載された。
- 許慎は建光元年(121年)に『説文解字』を完成させ献上するが、同書においては、後漢初代光武帝(劉秀)から当代(第6代)安帝(劉祜)までの各皇帝の諱「秀、荘、炟、肇、祜」は、夭逝した第5代殤帝の諱「隆」を除き、「上諱」とのみ記せられ本義の解説はなされていない。
- 西晋及び東晋では、司馬師(追号世宗景帝)の「師」を避け、「京師」を「京都」と言い換えた。
- 東晋の首都であった建康はもともと建業であったが、西晋の愍帝司馬鄴の諱を避けて建康と改められた。
- 唐代においては、太宗(李世民)の諱である「世」と「民」が公には使用できなかった。そのため、300年近くにわたって代用字として使用された「代」や「人」の方が一般的になり、後代にまで影響を与えることとなった。また鳩摩羅什が観世音菩薩と訳(旧訳)した菩薩を玄奘は観自在菩薩と翻訳(新訳)するが、観自在よりむしろ観音とされることが多く、日本においても観音の呼称が一般的となっている。また唐代に編纂された『隋書』において煬帝が倭国に使わした使者の裴世清(『日本書紀』)も『隋書』では裴清と記された。
- 唐の詩人杜甫は、父の名が杜閑であったため、その詩文に決して「閑」の字を用いなかったとされる。また同じく唐代の詩人である李賀は、父の名「李晋粛」の「晋」が「進」と同音であると因縁をつけられて進士科の受験を拒否された。
- 『康熙字典』において、清聖祖の諱(玄燁)に触れる「玄」および「玄」を構成要素として含む字は、わざと最終画を欠いた正しくない形に作られている。
- 王錫侯が著した『字貫』の初版は、清朝歴代皇帝の避諱を行っていなかったために禁書となり、王錫侯も処刑された。
- 清高宗の諱は「弘暦」なので「暦」の字は避けられ「歴」が代用された。また、同様に「弘」の字も避けられ、弓(ゆみへん)を崩して、「ム」の部分を口とした文字が用いられた。
- 嘉納治五郎の弘文学院に留学した清朝の学生の賞状などは「宏文学院」と表記された。乾隆帝の諱「弘暦」の「弘」を避けたものである。
- 江蘇省儀徴市は南唐のときに「永貞県」と称していたが北宋の仁宗趙禎の諱を避けて「揚子県」と改称。その後「儀真県」の名を下賜された。その後清朝のときに雍正帝胤禛の諱を避けて「儀徴県」と改称しさらに宣統帝溥儀の諱を避けて「揚子県」と改称。清朝滅亡後、避諱の習慣がなくなると「儀徴」の名前が復活。現在の中華人民共和国の県級市「儀徴市」は「避諱で3度改称した町」として知られる。
朝鮮での例
中国と同じく儒教の影響を色濃く受けた朝鮮でも避諱の習慣は堅く守られた。王の名前はもちろん、自分の先祖の名前の文字もはばかられた。そのため子が生まれると、族譜を引用し、先祖の名を確認してから、先祖の名に使用されていない文字で命名を行った。
日本での例
日本では貴人を諱(御名)で呼ぶことについては、中国と同様に実名敬避の習慣があった。たとえば天平勝宝9年(757年)5月には天皇と皇后の名と、藤原鎌足、藤原不比等の名を姓名に用いることが禁じられている。これによって姓(かばね)の首(おびと、聖武天皇の名)と史(ふひと、不比等)は「毗登」(ひと)に改められた[3][4]。また常陸国の「白壁郡」や「大伴氏」は天皇の名をはばかって(光仁天皇の名白壁、淳和天皇の名大伴)改名されている。源氏物語の登場人物もこうした風習を反映し、貴人の実名は徹底して伏せられている。このため貴人を呼ぶ際には官位名や居住所などを実名呼称の代わりとした。室町時代以降は、屋形号から「お屋形さま」、将軍の正室を「御台所」、こうした居住所からの敬称が派生した。近代の皇室典範制定後は、后位敬称となり受け継がれている。
また、日本には通字の習慣があり、鎌倉時代から江戸時代の武家社会などでは、主君の諱の字を家臣が拝領する偏諱授与の風習が存在した。諱を構成する字を徹底的に避ける、中国や朝鮮のような避諱の風習は定着しなかったが、通字や偏諱に用いられる諱の文字の使用には慎重さが求められ、後述の方広寺鐘銘事件で徳川家康が激怒したのはもっともだとする見方もある。ただし江戸時代など儒教の影響を強くうけた時代では、一部に避諱が行われている。
- 大坂の陣においては、豊臣氏の依頼によって作成された方広寺の鐘銘「国家安康」が、徳川家康の諱を侵した犯諱であるということで方広寺鐘銘事件が発生した。
- 江戸時代、李氏朝鮮とのあいだでは朝鮮通信使による国書の往来が行われていた。正徳度には日本の国書が中宗の諱「懌」を犯したと朝鮮側からの抗議が行われた。新井白石は朝鮮側の国書も「光」(徳川家光)字を犯しているとし、国書の訂正を受け入れなかったため論争となった(国諱論争)。
- 徳川綱吉は娘である鶴姫を溺愛し、貞享5年2月1日(1688年3月2日)[5]に庶民に対して鶴の字や鶴紋を用いることを禁じた「鶴字法度」を出している。このため井原西鶴は井原西鵬と改名することになり、京菓子屋の鶴屋も屋号を駿河屋と改名した。歌舞伎の中村座は定紋を丸に舞鶴から角切銀杏に改めている。また仙台藩では1667年頃から禁字法令が出され、伊達氏の通字である「宗」や、歴代当主の諱の字の使用を禁じた。
- 明治初年に、仁孝天皇(恵仁)、孝明天皇(統仁)、明治天皇(睦仁)の諱の内、「恵(惠)」、「統」、「睦」がそれぞれ欠画とされたことがあったが[6]、明治5年には廃止された[7]。明治6年3月28日に交付された太政官布告118号により、歴代天皇の諱と御名に使用されている文字を使うこと自体は問題がないとされ、熟字のまま使うことのみ禁じられた[8]。この太政官布告は昭和22年の戸籍法改正で正式に廃止された。また秩父宮妃は貞明皇后の名「節子(さだこ)」に遠慮して「節子(せつこ)」の名を「勢津子」と改めた。諱ではないものの、笠置シヅ子が三笠宮に遠慮して「三笠」姓から芸名を改めている。またやしきたかじんは、皇室尊崇者である父親により、たかじん(隆仁)の本来の読み「たかひと」を「陛下と同じ読みとは何事だ」という理由で変えたという[9]。しかしこれらは人名の衝突を避けているだけで、文字の使用そのものを避けているわけではない。
- 詔書の朗読の際には、詔書末尾の天皇の署名と御璽の押印は、署名そのものを読むのではなく「御名御璽」と読む慣習がある。
ベトナムでの例[10]
- ベトナムでも避諱は行われたが、字だけでなく音も変えさせることがある点に特色がある。
- 李朝以前の諸王朝では避諱の存在は確認されておらず、最古の史料は陳太宗の建中8年(1232年)に出された令である。仏領期にも阮朝が存続していたため避諱自体は公文書を中心に維持されたが、植民地期の皇帝の諱は避けられなかったようである。
- 避諱の方法は中国で行われた改字・空字・欠画のほか、次の方法がある。
- 偏と旁を転倒させる。このタイプの避諱ではしばしば字の上に「く」もしくは「人」形の記号を3つないし4つ並べる。これはもともと避諱の対象となる字を示すときに割注で「右従○、左従×」と表記していたため、この従字を簡略化したものである。
- この変形として陳朝の陳字を分解して阿東と表記することも行われた。
- 欠画の変形として偏を削除・塗抹する。
- 鄭氏政権時代には、鄭氏の王号の一部も避諱の対象となった。例えば清都王鄭梉の清字は避諱の対象となっている。
- 黎朝期に提も避諱字とされて題が代わりに用いられたが、これは科挙の試験官である提調官に由来する。
- 日常で頻用される漢字が避諱字となった場合、その漢字の発音も変えられた。現代まで残っているものとして利lợi(黎朝太祖黎利の諱:本来の音はlì)、時thời(阮朝嗣徳帝の諱:本来の音はthì)などがある。
- 阮朝皇帝家本宗は代々阮福○と名乗っていので、福(本来の音はphúc)はphướcと改音させられたが、字自体の使用は認められた。また、phướcの音は北部では普及しなかった。
- 宗tông(紹治帝の幼名)は尊tônと改められた。中南部方言では語末の-nと-ngの区別が無いために発音上は変化がないものの、クオックグーの表記上は区別する。だが、阮朝期を通じて互用された結果か、北部も含めて表記にも影響を与え、現代ベトナムの学術文献でもたとえば黎聖宗がLê Thánh tôn(漢越音に従えばLê Thánh tông)と表記されることがしばしばある。
避諱に類似したもの
- 北朝鮮の文字コード、KPS 9566には普通のチョソングル(ハングル)とは別の位置(4行72列 - 4行77列)に初代最高指導者・金日成(김일성)、第2代最高指導者・金正日(김정일)の名前専用に使われるチョソングルが登録されている。普通のチョソングルと異なり、常に太字で表記される(文字コードには登録されていないが、第3代最高指導者・金正恩 (김정은) も同様)。避諱に類似しているが、名だけでなく姓も対象となっていることや、指導者の名前に使われている文字を含む言葉を変化させるのではなく、指導者の名前自体の文字のほうを変化させているという相違点がある[11]。
「避諱」に関する資料
- 陳垣『史諱挙例』(上海書店出版社、1997年6月) ISBN 7806222529
- 王建 編『史諱辞典』(汲古書院、1997年) ISBN 476291049X
- 中国歴代の避諱を網羅的に掲載。ただし中国語。
- 井波陵一「使えない字 : 諱と漢籍」(京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センター編『漢籍はおもしろい』所収 2008年)
- Ngô Đức Thọ Nghiên cứu chữ huy Việt Nam qua các triều đại / Les Caractères Interdits au Vietnam à Travers l’Histoire. (traduit et annoté par Emmanuel Poisson, Hà Nội: Nxb Văn hoá, 1997).
脚注
- ^ 「中国」のように、言い換えが定着したため、後の王朝でも本来の呼び方に戻されなかった例もある。
- ^ 堀野哲仙 『文字の探訪-書の魅力-』 明治書院、2011年、p79 「第三章 異体字 二 2 欠画」
- ^ UnicodeCJK統合漢字拡張Bでは「毗登」の合字が U+2AF65 の符号位置で収録されている。
- ^ 渡辺晃宏『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』p.296
- ^ 日付は資料により異なる
- ^ 明治元年十月九日太政官布告による。『太政官日誌 明治元年 第110号』太政官、1876年 。
- ^ 明治五年正月二十七日太政官布告による。『太政官日誌 明治5年 第7号』太政官、1876年 。
- ^ 『法令全書 明治6年』内閣官報局、1912年、155頁 。
- ^ 天皇家の通字が「仁(ひと)」であり、歴代天皇の諱はほとんどが「仁」字が付いている。また皇族妃は「子」字を持つ名が与えられ、女性皇族も「子」の字が名に入る
- ^ Ngô Đức Thọ 1997
- ^ “KPS 9566” (PDF). 一般社団法人 情報処理学会 情報規格調査会. 2006年2月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年6月22日閲覧。