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「李守真」の版間の差分

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6月4日に百済の三部(みたむら)の使人が要請した軍事についての仰せ言があった、と『書紀』にはあり<ref>『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年6月4日条</ref>、2月23日、6月15日と「百済」が調(みつぎ)を献上したとの記述があるため<ref>『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年2月23日条、6月15日条</ref>、唐が当時交戦状態にあった新羅対策として、倭(日本)に軍事的な要請をしてきたことが窺われる。
6月4日に百済の三部(みたむら)の使人が要請した軍事についての仰せ言があった、と『書紀』にはあり<ref>『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年6月4日条</ref>、2月23日、6月15日と「百済」が調(みつぎ)を献上したとの記述があるため<ref>『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年2月23日条、6月15日条</ref>、唐が当時交戦状態にあった新羅対策として、倭(日本)に軍事的な要請をしてきたことが窺われる。


この後、同年11月には[[郭務ソウ|郭務悰]]が大船団を率いて対馬に現れている<ref>『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年11月10日条</ref>。[[天智天皇]]が崩御したのは、同年の12月3日のことであった<ref>『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年12月3日条</ref>。
この後、同年11月には[[郭務悰]]が大船団を率いて対馬に現れている<ref>『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年11月10日条</ref>。[[天智天皇]]が崩御したのは、同年の12月3日のことであった<ref>『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年12月3日条</ref>。





2020年8月16日 (日) 06:48時点における版

李 守真(り しゅしん、生没年不詳)は、中国代の官吏である。

略歴

李守真の名前は大陸側の史料には見えず、『日本書紀』の以下の箇所にのみ現れる。

671年咸亨2年、天智天皇10年1月13日)

百済の鎮将(いくさぎみ)劉仁願(りうじんぐゎん)、李守真(りしゅしん)等を遣(まだ)して、表(ふみ)(たてまつ)[1]

同年7月11日

唐人(もろこしびと)李守真(りしゅしん)等、百済の使人(つかひ)等、並(ならび)に罷(まか)り帰りぬ[2]

以上の2カ所である。半年間の滞在の間で、具体的にどのような交渉をしたのか、はっきりとしたことは分からない。なお、劉仁願は668年総章元年)8月に、高句麗戦において、兵を逗留させたため、姚州雲南省)に流罪にされている。そのため、この時、李守真がいつわって、派遣主として劉仁願の名前をあげた可能性が大きい。

6月4日に百済の三部(みたむら)の使人が要請した軍事についての仰せ言があった、と『書紀』にはあり[3]、2月23日、6月15日と「百済」が調(みつぎ)を献上したとの記述があるため[4]、唐が当時交戦状態にあった新羅対策として、倭(日本)に軍事的な要請をしてきたことが窺われる。

この後、同年11月には郭務悰が大船団を率いて対馬に現れている[5]天智天皇が崩御したのは、同年の12月3日のことであった[6]


脚注

  1. ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年正月13日条
  2. ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年7月11日条
  3. ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年6月4日条
  4. ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年2月23日条、6月15日条
  5. ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年11月10日条
  6. ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年12月3日条

参考文献

関連項目