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「桃山虔一」の版間の差分

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'''桃山 虔一'''(ももやま けんいち、[[1909年]]([[隆熙]]3年)[[10月28日]] - [[1990年]]([[平成]]2年)[[12月21日]])は、[[日本]]の[[王公族|公族]]、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]軍人。[[陸軍士官学校 (日本)|陸士]]42期・[[陸軍大学校|陸大]]51期。最終階級は陸軍中佐。
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== 生涯 ==
== 生涯 ==

2020年8月16日 (日) 05:08時点における版

桃山 虔一
李鍵公
続柄 義親王李堈第一男子

全名 李勇吉→李鍵→桃山虔一→李虔一→桃山虔一
身位 公→身位喪失
敬称 殿下→身位喪失
出生 (1909-10-28) 1909年10月28日
大韓帝国漢城府寺洞宮
死去 (1990-12-21) 1990年12月21日(81歳没)
日本の旗 日本
配偶者 李誠子→桃山佳子
  桃山美子
父親 李堈
母親 鄭氏
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桃山 虔一(ももやま けんいち、1909年隆熙3年)10月28日 - 1990年平成2年)12月21日)は、日本公族陸軍軍人。陸士42期・陸大51期。最終階級は陸軍中佐。

大韓帝国李王家の出身で、元の名は李鍵(り けん、朝鮮語: 이 건、イ・コン)。李氏朝鮮第26代国王・大韓帝国初代皇帝高宗の孫。異母弟に広島の原爆で被爆死した、全州李氏の現当主李源の父李鉀、李源と当主の座を争う李錫、異母妹に李海瑗がいる。

生涯

出生・韓国併合から公族時代

高宗の五男で純宗の異母弟である義親王李堈の長男として、韓国併合前年の大韓帝国に生まれた。韓国併合を受けて公族としての教育を受けるために幼少時に渡日し、学習院中等科を経て、1930年昭和5年)に陸軍士官学校を卒業し(42期)、陸軍騎兵将校となる。同年、父の隠居に伴い公位を継承する。1938年(昭和13年)に陸軍大学校(51期)を卒業。

1931年(昭和6年)10月、騎兵少尉時代に、海軍大佐松平胖松平頼聡伯爵の十男)の長女で、伯爵廣橋眞光の養妹の誠子(よしこ、戦後に佳子と字を改めた、1911年 - 2006年)と見合い結婚した。

陸軍大学校兵学教官(陸軍中佐)として終戦を迎えた[1]

戦後の日本帰化

終戦後、朝鮮半島南部に建国された大韓民国や、北部に建国された朝鮮民主主義人民共和国には行かず、東京日本人として生きることを決意する。1947年(昭和22年)5月、新憲法発布に伴って公族の身位を喪失すると「桃山虔一」と名乗った。妻・誠子も字を改め桃山佳子となり、2男1女もそれぞれ日本風の名に改名した。1955年(昭和30年)、日本国籍を取得して桃山虔一が戸籍名となる。

父・李堈の散財によりもともと資産が乏しく、終戦時の東京邸には5万円の現金しかなかった上、新憲法発布によって日本政府からの歳費が途絶えたため、宮内省(新憲法下で宮内府、宮内庁に改組)から内密で毎月1万円を贈られていたが、間もなくGHQに知れて送金を停止された。「陸軍将校」のため公職追放にも遭っている[2]。このため、渋谷駅バラック建ての一廓に3坪余のお汁粉屋「桃屋」を開業した。このほか、陸軍大学校でドイツ語の兵学教官を務めた経歴を生かしてドイツ語の翻訳業に転じたものの注文は少なく、その後は農園経営や謄写版のガリ版書き、書籍取次の栗田書店勤務など、転々と職を変えた。

離婚と再婚

家庭面では、妻・佳子が社交的であったのに対し、寡黙・内向的でもともと性格の不一致があった。戦後、佳子がその性格を生かして銀座クラブで働き人気を得ると、夫婦間の齟齬はさらに広がった。また、結婚翌年に生まれた長男は戦中の血液検査から別の男性との子と分かって悩み、1951年5月に離婚した。佳子との間に儲けた2男1女のうち、長男と長女は佳子が引き取った。

次いで秩父地方出身の前田藤吉の長女・美子(よしこ)と再婚し、1952年(昭和27年)に美子との間に長男孝哉を儲けた。

ただ、美子との結婚は戸籍上は初婚扱いとなるという珍事となった。王公族は一般の戸籍でなく「王公族譜」に入っており、また1947年の身位喪失により、先妻の佳子や子女とともに在日朝鮮人となったものの、日本に在住していたため朝鮮籍への就籍手続きを取ることが出来ず、さらに1951年に離婚した際に佳子のみ日本国籍に復籍するなど、戸籍・国籍の変動の影響を受けたものである[3]

晩年

晩年は、家族で埼玉県与野市内の市営住宅に暮らしつつ、戦前からの車好きを受けて日本クラシックカークラブ(CCCJ)の会長を務めたほか、自動車関係の執筆も行った。1990年12月21日に死去した。浦和市で行われた通夜には、陸軍で同じく騎兵科であった三笠宮崇仁親王が出席した[4]

趣味

戦前から戦中には自動車愛好家として知られ、イギリス製スポーティカー・アルヴィス・スピード20やアメリカの超高級車ピアスアロー (Pierce-Arrowの大型リムジンオールズモビルなど多数を所有していた。これが機縁となって1970年代後半、日本クラシックカークラブの会長に推され、死去まで務めた。

栄典

子女と李王家の関係

先妻・誠子(佳子)との間に長男の沖、次男の沂、長女沃子の2男1女を儲けた。沖・沂・沃子は、1947年にそれぞれ忠久・欣也・明子に改名した。離婚により、長男と長女は佳子が引き取り、次男は虔一が引き取った。次男欣也は、虔一の再婚相手・美子の父・前田藤吉の養子となっている。1955年、虔一と同様に日本国籍を取得した。後妻・美子との間には、一男の孝哉、ほか2女がある[10]

虔一は義親王李堈の長男であり、かつて「公」の身分を有していた人物であったことから、2005年に元李王世子で李家当主の李玖が嗣子なく死去したことにより、桃山家の世帯主である孝哉(当時、開成高校で英語教師および教頭を務めた)が全州李氏の嫡流・当主に最も近い立場になった。しかし孝哉は、美子が死去するまで父の出自については聞かされていなかったといい、李王家についても「自分は100%日本人だと思っている、李王家のことや王位継承うんぬんは私には何ひとつ関係のないことです」として韓国などにいる他の李王家末裔らと親戚付き合いはしていないという。他の虔一の子女も李王家末裔の集まりなどには参加していない。

脚注

  1. ^ 松原慶治 編『終戦時帝国陸軍全現役将校職務名鑑』戦誌刊行会、1985年、1712頁。 
  2. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、366頁。NDLJP:1276156 
  3. ^ 1945年の終戦後、朝鮮人の日本国籍に関しては法制度面で極めて不確定な状態にあった。なお、1952年サンフランシスコ講和条約発効に伴い、朝鮮人は本人の意思とは関係なく一律に日本国籍を喪失した。
  4. ^ 河原敏明『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』講談社2004年
  5. ^ 『官報』第849号、「叙任及辞令」1929年10月28日。p.672
  6. ^ 『官報』第1149号、「叙任及辞令」1930年10月27日。p.642
  7. ^ 『官報』第1499号、「叙任及辞令」1931年12月28日。p.742
  8. ^ 『官報』第4150号、「叙任及辞令」1940年11月5日。p.167
  9. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  10. ^ 小田部雄次『皇族に嫁いだ女性たち』角川学芸出版2009年