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立本も家学をよく学び、政務に通じたことから工部尚書(656年)、博陵県公(668年)を経て、咸亨元年(670年)には中書令(宰相)にまで昇っている。太宗と侍従らが遊ぶ宮中の池の傍で、太宗の求めに応じて立場がありながらも写生のために俯伏して鳥の写生を行ったことを恥じ、宮中で軽んじられるとの理由から子供たちに絵を習得しないよう命じたとされる。 |
立本も家学をよく学び、政務に通じたことから工部尚書(656年)、博陵県公(668年)を経て、咸亨元年(670年)には中書令(宰相)にまで昇っている。太宗と侍従らが遊ぶ宮中の池の傍で、太宗の求めに応じて立場がありながらも写生のために俯伏して鳥の写生を行ったことを恥じ、宮中で軽んじられるとの理由から子供たちに絵を習得しないよう命じたとされる。 |
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殊に画に才能が発揮され、[[武徳]]9年(626年)には、太宗に命ぜられて「[[秦府十八学士図]]」を画き、[[ |
殊に画に才能が発揮され、[[武徳]]9年(626年)には、太宗に命ぜられて「[[秦府十八学士図]]」を画き、[[褚亮]]が賛を書いた。その他に「王会(職貢)図」・「歩輦図」・「功臣二十四人図」などを画いたと伝えられる。「[[歴代帝王図巻]]」([[ボストン美術館]]蔵)は[[前漢]]の[[昭帝 (漢)|昭帝]]から隋の煬帝までの歴代13人の皇帝を画いた図巻として著名だが、[[北宋]]時代の模写であろうとされる。この時代の絵画の特徴は、王の権威を示す社会機能が重視されたため、個性の表現は抑えられ、伝統的な絵画技法がとられた。立本の作品も細く力強い綿密な線が連綿と続く古来の描法である。この伝統的画法に対して当時、[[西域]]画派が台頭し始め、[[尉遅乙僧]](うっち いっそう)などが新風を吹き込んだ。閻立本の伝統的画法は[[薛稷]]らが継承した。 |
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== 「歴代帝王図巻」の十三皇帝図 == |
== 「歴代帝王図巻」の十三皇帝図 == |
2020年8月15日 (土) 00:35時点における版
閻 立本(えん りっぽん、仁寿元年(601年) - 咸亨4年(673年))は、中国の唐の画家である。太宗に仕え、貴族ではあるが宮廷画家として活躍した。人物図・肖像画を得意とする。雍州万年県(現在の陝西省西安市臨潼区)の人。母は北周の第3代皇帝武帝の娘の清都公主。北周の第4代皇帝宣帝の甥で、第5代皇帝静帝の従弟にあたる。
生涯
父の閻毗は隋の煬帝に仕え、兄の閻立徳も立本と同じく唐の太宗に仕え、橋梁の構築で偉功があった。宮廷装飾というのは画に限らず、宮中での冠服から車輿の設計、土木事業にまでわたっている。父は技工が巧みであり、この父の影響から兄の閻立徳と弟の立本も早くより絵を志した。文献から兄の閻立徳が線のみで描く白画(はくが)を描いていたとされ、立本は鄭法士などの影響で人物画を好んだとされている。
立本も家学をよく学び、政務に通じたことから工部尚書(656年)、博陵県公(668年)を経て、咸亨元年(670年)には中書令(宰相)にまで昇っている。太宗と侍従らが遊ぶ宮中の池の傍で、太宗の求めに応じて立場がありながらも写生のために俯伏して鳥の写生を行ったことを恥じ、宮中で軽んじられるとの理由から子供たちに絵を習得しないよう命じたとされる。
殊に画に才能が発揮され、武徳9年(626年)には、太宗に命ぜられて「秦府十八学士図」を画き、褚亮が賛を書いた。その他に「王会(職貢)図」・「歩輦図」・「功臣二十四人図」などを画いたと伝えられる。「歴代帝王図巻」(ボストン美術館蔵)は前漢の昭帝から隋の煬帝までの歴代13人の皇帝を画いた図巻として著名だが、北宋時代の模写であろうとされる。この時代の絵画の特徴は、王の権威を示す社会機能が重視されたため、個性の表現は抑えられ、伝統的な絵画技法がとられた。立本の作品も細く力強い綿密な線が連綿と続く古来の描法である。この伝統的画法に対して当時、西域画派が台頭し始め、尉遅乙僧(うっち いっそう)などが新風を吹き込んだ。閻立本の伝統的画法は薛稷らが継承した。
「歴代帝王図巻」の十三皇帝図
関連項目
出典
- 世界美術全集 第8巻 中国古代Ⅱ 隋・唐 平凡社、昭和25年
- 小野勝年訳注『歴代名画記』岩波文庫、ISBN 4003355512
- 嶋田英誠 WEB版 中国絵画史辞典 (SHIMADA's Dictionary for Chinese Painting)