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「丹羽海鶴」の版間の差分

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m 出生時期が江戸時代なので、出生地を岐阜県恵那郡から苗木領・美濃国恵那郡に訂正
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== 略歴 ==
== 略歴 ==
文久3年(1863年)苗木藩領・美濃国[[恵那郡]]田瀬村(現[[中津川市|岐阜県中津川市]]田瀬)に庄屋丹羽五兵衛の4男として生まれる。幼少の頃より書に親しみ、飛騨の高山小学校で教鞭を執りながら[[書道]]の研究を続けた。明治21年(1888年)8月、26歳のとき[[日下部鳴鶴]]の遊歴に会い、その[[筆跡]]と見識の高さに敬服し入門を願い出た。以後、通信教育で指導を受けたが、のち上京し、内弟子として7年、朝夕その座右に侍して薫陶を受け、鳴鶴に書の才能を認められた。はじめ[[中国の書道史#六朝(楷行草書時代)|六朝風]]を慕ったが、のち[[書道用語一覧#晋唐の書風|晋唐風]]を研究し、特に[[チョ遂良|褚遂良]]をよく習い、『[[チョ遂良#孟法師碑|孟法師碑]]』を髣髴させる作品を残している。海鶴の書風は書道教育界に受け入れられ、学習院教官、[[東京教育大学|東京高等師範学校]]講師、[[日本の書道史#文部省教員検定試験|文部省教員検定試験]]委員(習字科)などを歴任し、教育界への影響力は絶大であった。
文久3年(1863年)苗木藩領・美濃国[[恵那郡]]田瀬村(現[[中津川市|岐阜県中津川市]]田瀬)に庄屋丹羽五兵衛の4男として生まれる。幼少の頃より書に親しみ、飛騨の高山小学校で教鞭を執りながら[[書道]]の研究を続けた。明治21年(1888年)8月、26歳のとき[[日下部鳴鶴]]の遊歴に会い、その[[筆跡]]と見識の高さに敬服し入門を願い出た。以後、通信教育で指導を受けたが、のち上京し、内弟子として7年、朝夕その座右に侍して薫陶を受け、鳴鶴に書の才能を認められた。はじめ[[中国の書道史#六朝(楷行草書時代)|六朝風]]を慕ったが、のち[[書道用語一覧#晋唐の書風|晋唐風]]を研究し、特に[[褚遂良]]をよく習い、『[[遂良#孟法師碑|孟法師碑]]』を髣髴させる作品を残している。海鶴の書風は書道教育界に受け入れられ、学習院教官、[[東京教育大学|東京高等師範学校]]講師、[[日本の書道史#文部省教員検定試験|文部省教員検定試験]]委員(習字科)などを歴任し、教育界への影響力は絶大であった。


昭和初期までの習字教科書の書風は顔法([[顔真卿]]の筆法)であったが、海鶴は書道教育の基準を[[初唐の三大家|初唐の楷書]]におくことを提唱し、その門下である[[鈴木翠軒]]が国定四期(1933年 - 1940年)の習字教科書を執筆するに至った。翠軒は海鶴よりの伝承を忠実に墨守した。他に[[田代秋鶴]]、[[田中海庵]]、[[水島望鶴]]、[[井上桂園]]、[[藤原鶴来]]など数多くの門弟を輩出し、昭和6年(1931年)67歳で没した。
昭和初期までの習字教科書の書風は顔法([[顔真卿]]の筆法)であったが、海鶴は書道教育の基準を[[初唐の三大家|初唐の楷書]]におくことを提唱し、その門下である[[鈴木翠軒]]が国定四期(1933年 - 1940年)の習字教科書を執筆するに至った。翠軒は海鶴よりの伝承を忠実に墨守した。他に[[田代秋鶴]]、[[田中海庵]]、[[水島望鶴]]、[[井上桂園]]、[[藤原鶴来]]など数多くの門弟を輩出し、昭和6年(1931年)67歳で没した。

2020年8月15日 (土) 00:32時点における版

丹羽海鶴顕彰碑(岐阜県中津川市田瀬)「春如海(はるうみのごとし)」

丹羽 海鶴(にわ かいかく、文久3年11月25日1864年1月4日) - 昭和6年(1931年7月5日)は、岐阜県生まれの書家。本名は正長、幼名は金吾寿郷海鶴。晩年には落款海隺とも書いた。日下部鳴鶴に師事。

業績

明治から大正にかけて活躍した書家で、鄭道昭初唐の楷書を基調とした海鶴の書風は海鶴流と称され、一世を風靡した。また、書道教育界に影響力を持ち、習字教科書の書風を改革して近代書道教育の発展に貢献した。

略歴

文久3年(1863年)苗木藩領・美濃国恵那郡田瀬村(現岐阜県中津川市田瀬)に庄屋丹羽五兵衛の4男として生まれる。幼少の頃より書に親しみ、飛騨の高山小学校で教鞭を執りながら書道の研究を続けた。明治21年(1888年)8月、26歳のとき日下部鳴鶴の遊歴に会い、その筆跡と見識の高さに敬服し入門を願い出た。以後、通信教育で指導を受けたが、のち上京し、内弟子として7年、朝夕その座右に侍して薫陶を受け、鳴鶴に書の才能を認められた。はじめ六朝風を慕ったが、のち晋唐風を研究し、特に褚遂良をよく習い、『孟法師碑』を髣髴させる作品を残している。海鶴の書風は書道教育界に受け入れられ、学習院教官、東京高等師範学校講師、文部省教員検定試験委員(習字科)などを歴任し、教育界への影響力は絶大であった。

昭和初期までの習字教科書の書風は顔法(顔真卿の筆法)であったが、海鶴は書道教育の基準を初唐の楷書におくことを提唱し、その門下である鈴木翠軒が国定四期(1933年 - 1940年)の習字教科書を執筆するに至った。翠軒は海鶴よりの伝承を忠実に墨守した。他に田代秋鶴田中海庵水島望鶴井上桂園藤原鶴来など数多くの門弟を輩出し、昭和6年(1931年)67歳で没した。

主な著書

  • 『崔子玉座右銘』
  • 『教育勅語』
  • 『書範』
  • 『中等習字帖』

参考文献