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[[韓国野球委員会|韓国プロ野球]]・[[起亜タイガース]]に所属していた2009年、当時プロ3年目だった投手の[[梁玹種]]を先発に抜擢し、先発ローテーションの一翼を担う選手に成長させた。この年に[[起亜タイガース]]は韓国シリーズで優勝するが梁玹種は韓国シリーズでは勝利を収めることができなかった。{{by|2017年}}、ペナントレースで20勝をあげチームの[[韓国シリーズ]]直行に大きく貢献した梁玹種は、再び韓国シリーズに進出したら試合に招待したいとの約束を果たし、第2戦の先発登板に合わせ神部を韓国に招待した。梁玹種はこの試合で恩師の前で韓国シリーズ史上10度目となる完封勝利を飾った。試合後も、神部への感謝の気持ちを述べており、このエピソードは韓国メディアでも大きく報道された<ref>[http://www.yonhapnews.co.kr/bulletin/2017/10/26/0200000000AKR20171026209500007.HTML?input=1179m 칸베 전 KIA 투수코치 "대단한 노력의 결과로 이런 선수 돼"] 聯合ニュース 2017年10月26日</ref>。 |
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== 詳細情報 == |
== 詳細情報 == |
2020年8月14日 (金) 11:29時点における版
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県加古郡播磨町 |
生年月日 | 1943年3月24日(81歳) |
身長 体重 |
175 cm 78 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1969年 ドラフト2位 |
初出場 | 1970年4月14日 |
最終出場 | 1981年10月12日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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神部 年男(かんべ としお、1943年3月24日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。
経歴
1943年に兵庫県加古郡播磨町に生まれる。播磨町立播磨中学校・兵庫県立高砂高等学校から三菱製紙に進み、準硬式野球の選手として活躍。1965年に富士製鐵広畑に移り、1966年の都市対抗に住友金属の補強選手として出場。準決勝では大昭和製紙を完封、決勝に進みリリーフで登板するが、熊谷組に延長10回裏サヨナラ負けを喫する[1]。1966年の第1次ドラフト3位で読売ジャイアンツに指名されるが、これを拒否し富士製鐵広畑に残留。
1968年の都市対抗では松下電器から補強された岡田光雄との二本柱で勝ち進む。河合楽器との決勝では先発を任され、岡田へ継投し1-0で勝利[1]。初優勝を飾り最優秀選手の橋戸賞を受賞した。この時のチームメートに岡田と同じく松下電器から補強された福本豊、加藤秀司がいた。同年8月にはアラスカ・ゴールドパナーズ[2]との日米親善野球試合に出場。1969年の都市対抗では、1回戦で三協精機の池島和彦に投げ勝ち、2回戦でも八幡製鐵を完封するが、3回戦で日本生命の小弓場保に完封を喫する[1]。
1969年のドラフト2位で近鉄バファローズに入団。1年目の1970年から先発として起用され、同年は8勝を記録。1971年にはリーグ最多の51試合に登板し10勝を挙げる。その後も低迷期の近鉄で、ローテーションに定着し活躍した。1975年と1976年の2年は開幕戦の先発を務めている(相手はいずれも阪急ブレーブス)。1975年4月20日の藤井寺球場での対南海ホークス戦でノーヒットノーランを達成。スコアは1-0、四死球4で打者30人、三振は藤原満から奪った1つだった。フィールディングや牽制球の技術に優れ、通算盗塁数日本記録保持者の福本豊(阪急)は神部について、クセがわからず都市対抗野球時代以来盗塁がまったくできなかったと述べている[3]。神部は、都市対抗野球の地区大会では福本の所属していた松下電器を倒さないと本戦に出られないため、対策としてその時代から牽制技術の向上に取り組んでいた[3]。福本は長年の研究の結果、1971年頃に「牽制球を投げる時、ほんの数mm軸足(左足のかかと)が浮き上がる」癖を見抜いたという[3]。同様に癖を見抜くことに長けていた高井保弘も神部の癖を見抜くことが出来なかったと語っている。神部はスコアラーに撮影させた写真から左足の癖に気づいて修正し、しばらく福本は走りづらくなったが、その後再び走られるようになったと述べている[3]。神部は近鉄入団当時、阪急に福本がいることを知らず「またや!」と思ったといい、後述のトレードでセントラル・リーグに移ると決まったときは「ホッとした」と後年述べている[3][4]。
1979年に佐藤竹秀・寺田吉孝と共にチャーリー・マニエル・永尾泰憲との交換トレードでヤクルトスワローズに移籍。ここでも先発陣の一角として起用される。1980年10月12日、読売ジャイアンツ戦で王貞治に同年の30号(19年連続の30本塁打到達)、通算868号となる本塁打を打たれた。同年限りで現役を引退した王にとって、これがプロ野球公式戦での最終本塁打となった。1981年には抑えとして起用されるが、1982年には登板機会がなく同年限りで現役を引退した。
引退後は、1983年から1985年までヤクルト二軍投手コーチ、1986年から1996年まで近鉄投手コーチを務め、1989年は一軍投手コーチ(ブルペン)として近鉄のリーグ優勝に貢献し、また数多くの投手を育成した。
1997年から2001年までは、近鉄時代のヘッドコーチ・監督であった仰木彬に請われ、オリックス一軍投手コーチ。スカウトを経て、2005年に新生オリックス一軍投手コーチに復帰し2007年まで務めた。2004年には、J SPORTSで解説者を務めていた。
2008年から2009年まで、韓国プロ野球・起亜タイガースの一軍投手コーチを務め、投手陣を整備し2009年は起亜の12年ぶりの韓国シリーズ優勝に貢献した。
2013年の2月から3月にかけ、韓国プロ野球のハンファ・イーグルスの沖縄キャンプで投手インストラクターを務めることとなった。
韓国プロ野球・起亜タイガースに所属していた2009年、当時プロ3年目だった投手の梁玹種を先発に抜擢し、先発ローテーションの一翼を担う選手に成長させた。この年に起亜タイガースは韓国シリーズで優勝するが梁玹種は韓国シリーズでは勝利を収めることができなかった。2017年、ペナントレースで20勝をあげチームの韓国シリーズ直行に大きく貢献した梁玹種は、再び韓国シリーズに進出したら試合に招待したいとの約束を果たし、第2戦の先発登板に合わせ神部を韓国に招待した。梁玹種はこの試合で恩師の前で韓国シリーズ史上10度目となる完封勝利を飾った。試合後も、神部への感謝の気持ちを述べており、このエピソードは韓国メディアでも大きく報道された[5]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1970 | 近鉄 | 38 | 13 | 1 | 1 | 0 | 8 | 7 | -- | -- | .533 | 559 | 133.1 | 110 | 10 | 51 | 2 | 8 | 74 | 0 | 1 | 55 | 48 | 3.25 | 1.21 |
1971 | 51 | 15 | 5 | 0 | 0 | 10 | 9 | -- | -- | .526 | 655 | 160.0 | 138 | 15 | 56 | 9 | 4 | 87 | 5 | 1 | 62 | 57 | 3.21 | 1.21 | |
1972 | 46 | 25 | 8 | 2 | 1 | 13 | 9 | -- | -- | .591 | 854 | 210.2 | 186 | 16 | 58 | 7 | 4 | 112 | 5 | 1 | 66 | 56 | 2.39 | 1.16 | |
1973 | 26 | 10 | 3 | 0 | 0 | 7 | 7 | -- | -- | .500 | 430 | 106.2 | 87 | 5 | 47 | 4 | 2 | 48 | 2 | 0 | 40 | 35 | 2.94 | 1.26 | |
1974 | 28 | 21 | 8 | 4 | 1 | 12 | 7 | 1 | -- | .632 | 611 | 151.0 | 129 | 14 | 48 | 4 | 1 | 74 | 4 | 1 | 43 | 40 | 2.38 | 1.17 | |
1975 | 31 | 25 | 9 | 2 | 0 | 10 | 8 | 1 | -- | .556 | 705 | 173.2 | 142 | 15 | 53 | 1 | 8 | 57 | 3 | 0 | 66 | 59 | 3.05 | 1.12 | |
1976 | 27 | 20 | 8 | 3 | 3 | 8 | 12 | 1 | -- | .400 | 598 | 146.1 | 142 | 13 | 43 | 2 | 1 | 62 | 0 | 0 | 59 | 53 | 3.27 | 1.26 | |
1977 | 25 | 15 | 6 | 1 | 1 | 5 | 9 | 3 | -- | .357 | 473 | 116.1 | 118 | 10 | 26 | 2 | 1 | 54 | 3 | 1 | 51 | 47 | 3.65 | 1.24 | |
1978 | 21 | 18 | 4 | 0 | 1 | 7 | 5 | 0 | -- | .583 | 519 | 124.1 | 115 | 11 | 36 | 3 | 5 | 60 | 0 | 0 | 46 | 43 | 3.12 | 1.21 | |
1979 | ヤクルト | 25 | 24 | 3 | 1 | 0 | 6 | 8 | 0 | -- | .429 | 557 | 125.0 | 146 | 21 | 49 | 5 | 2 | 65 | 1 | 0 | 64 | 60 | 4.32 | 1.56 |
1980 | 20 | 13 | 2 | 1 | 0 | 3 | 5 | 0 | -- | .375 | 278 | 69.1 | 67 | 10 | 21 | 0 | 2 | 32 | 0 | 1 | 31 | 30 | 3.91 | 1.27 | |
1981 | 32 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 10 | -- | .250 | 255 | 60.2 | 59 | 3 | 22 | 3 | 2 | 37 | 2 | 2 | 25 | 24 | 3.54 | 1.34 | |
通算:12年 | 370 | 204 | 57 | 15 | 7 | 90 | 89 | 16 | -- | .503 | 6494 | 1577.1 | 1439 | 143 | 510 | 42 | 40 | 762 | 25 | 8 | 608 | 552 | 3.15 | 1.24 |
- 各年度の太字はリーグ最高
記録
- 初記録
- 初登板・初勝利:1970年4月14日、対東映フライヤーズ1回戦(後楽園球場)、6回裏に2番手で救援登板・完了、6回無失点
- 初奪三振:同上、6回裏に大杉勝男から
- 初先発:1970年4月19日、 対ロッテオリオンズ1回戦(藤井寺球場)、6回1/3を2失点
- 初先発勝利・初完投勝利・初完封勝利:1970年5月19日、対ロッテオリオンズ3回戦(東京スタジアム )
- 初セーブ:1974年9月24日、対阪急ブレーブス後期12回戦(日生球場)、8回表に2番手で救援登板・完了、2回1失点
- その他の記録
背番号
- 27 (1970年 - 1978年)
- 11 (1979年 - 1982年)
- 73 (1983年 - 1985年)
- 83 (1986年 - 1996年、2005年 - 2007年)
- 81 (1997年 - 2001年)
脚注
- ^ a b c 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
- ^ 「アラスカ・ゴールドパナーズ1968年」大学生を主体としアラスカ・リーグに所属するセミプロチームである
- ^ a b c d e 長谷川晶一『プロ野球、伝説の表と裏』主婦の友社、2014年、pp.pp147 - 150
- ^ 福本も神部の近鉄入団時に「難敵」「プロとしてどう対応しよう」という思いを抱いたと著書で述べている(福本豊『走らんかい!』ベースボール・マガジン社<ベースボール・マガジン新書>、2009年、pp.34 - 35)。
- ^ 칸베 전 KIA 투수코치 "대단한 노력의 결과로 이런 선수 돼" 聯合ニュース 2017年10月26日
背番号
- 27 (1970年 - 1978年)
- 11 (1979年 - 1982年)
- 73 (1983年 - 1985年)
- 83 (1986年 - 1996年、2005年 - 2007年)
- 81 (1997年 - 2001年、2008年 - 2009年)
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 神部年男 - NPB.jp 日本野球機構