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2020年8月14日 (金) 11:26時点における版

程克
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1878年光緒4年)
死去: 1936年民国25年)3月28日
中華民国の旗 中華民国天津市
出身地: 清の旗 河南省開封府祥符県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 程克
簡体字 程克
拼音 Chéng Kè
ラテン字 Ch'eng K'e
和名表記: てい こく
発音転記: チョン コー
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程 克(てい こく)は中華民国の政治家。北京政府の要人。仲漁衆漁

事績

河南大学を卒業後、日本に留学する。東京帝国大学法科を卒業して法学士を取得した。また、中国同盟会に加入し、雑誌『河南』を創刊している。帰国後は天津で革命派のための秘密活動に従事したが、事が漏れて捕らえられた。趙秉鈞の斡旋により釈放されている。

1912年民国元年)6月以降、北京政府内務部で各職を歴任している。翌年4月には国会参議院に選出された。1914年(民国3年)6月、陝西省の漢中道尹となり、翌年12月には、副都統阿爾泰(アルタイ)弁事長官に任じられた。1918年(民国7年)、病により辞職、帰郷した。

1922年(民国11年)、河南督軍となっていた馮玉祥の知遇を得る。翌年1月に、その推薦により司法総長兼修定法律館総裁に任じられた。在任中の程克は、法廷で無罪判決を受けて釈放された羅文幹(政治家・法学者)について、判決を不服として上訴し、羅を再度収監させてしまう。これは、全国司法界の反発・激昂を招く大失態となってしまった[1]

1924年(民国13年)1月、程克は内務総長に昇進した。しかし同年9月に辞任し、天津に寓居する。なお、この頃までには、程克は殷汝耕殷同袁良とともに、日本通の四巨頭と目されるようになっている。

国民政府成立後の1933年(民国22年)9月に、北平政治会議顧問として招聘に応じた。1935年(民国24年)6月、天津市長に任じられる。同年12月には、冀察政務委員会委員となった。

1936年(民国25年)3月28日、天津にて病没。享年59。

  1. ^ 羅文幹事件(対オーストリア契約事件)の詳細については、羅文幹の項を参照。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 邵桂花「羅文幹」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第12巻』中華書局、2005年。ISBN 7-101-02993-0 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
王正廷
司法総長
1923年1月 - 1924年1月
次代
王寵恵
先代
高凌霨
内務総長
1924年1月 - 9月
次代
顔恵慶
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
商震
天津特別市長
1935年6月 - 12月
次代
蕭振瀛