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2020年8月13日 (木) 09:05時点における版

李銘書
プロフィール
出生: 1878年[1]
死去: 1939年康徳6年)10月8日
出身地: 清の旗 盛京将軍管轄区錦州府(現在の黒山県[2]
職業: 政治家
各種表記
繁体字 李銘書
簡体字 李铭书
拼音 Lǐ Míngshū
ラテン字 Li Ming-shuh
和名表記: り めいしょ
発音転記: リー ミンシュー
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李 銘書(り めいしょ、繁体字: 李銘書; 簡体字: 李铭书; 繁体字: 李銘書; 拼音: Lǐ Míngshū; ウェード式: Li Ming-shuh)は、中華民国満州国の政治家。別号は子箴[2]

事績

1912年民国元年)、奉天法政学校を卒業後、吉林省黒竜江省で各職を歴任した[3]1932年大同元年)3月に満州国が建国されると、吉林省で省政府秘書長に任命された。同年12月、民政庁長の王惕が免ぜられ、翌1933年(大同2年)に李銘書が後任となっている[4]1934年康徳元年)12月1日、煕洽の後任として吉林省長に昇進した[3]1937年(康徳4年)7月1日付で退官して[5]宮内府顧問官に移り、翌月に満州拓殖公社が創設されるとその理事も兼ねた[6]1939年(康徳6年)10月8日、病没。享年62。

  1. ^ 「李銘書氏」『読売新聞』昭和14年(1939年)10月10日が「享年六十二」と報じていることによる。その一方で、「新省長と総務庁長 その一」『満州日報』1934年11月20日は「本年五十五歳」と報じており、これに従うならば1880年生まれになる。
  2. ^ a b 劉ほか編(1995)、1292頁。
  3. ^ a b 「新省長と総務庁長 その一」『満州日報』1934年11月20日。
  4. ^ 劉ほか編(1995)、1190頁。
  5. ^ 「満州国退官者」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)7月1日夕刊。
  6. ^ 「李銘書氏」『読売新聞』昭和14年(1939年)10月10日。

参考文献

  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  満州国
先代
煕洽
吉林省長
1934年12月 - 1937年7月
次代
閻伝紱