「文帝 (漢)」の版間の差分
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生母である薄氏に対しては孝行を尽くし、自ら毒味役を務めたりと孝行な皇帝であるとして、後世[[二十四孝]]に数えられた。文帝は薄氏を尊重し、[[冤罪]]により[[周勃]]が逮捕された際に薄氏から叱責を受けると周勃の釈放を命じたり、臣下の諫言にもかかわらず計画していた匈奴との戦争を薄氏の説得により中止している。 |
生母である薄氏に対しては孝行を尽くし、自ら毒味役を務めたりと孝行な皇帝であるとして、後世[[二十四孝]]に数えられた。文帝は薄氏を尊重し、[[冤罪]]により[[周勃]]が逮捕された際に薄氏から叱責を受けると周勃の釈放を命じたり、臣下の諫言にもかかわらず計画していた匈奴との戦争を薄氏の説得により中止している。 |
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自らの擁立者でもあり、同時に政敵でもあった[[諸侯王]]に対しては穏便に接し、本来ならば無嗣断絶になる場合、また謀反を起こして廃立される場合にも、皇帝の恩恵という名目でその血縁者を求め、領地を分割させて諸侯の地位を保全させる努力を払っている。これらは後の[[呉楚七国の乱]]の原因となったと批判されているが、分割相続によって反乱を起こした諸侯王家の意思統一が困難になり、乱の早期鎮圧が可能になったともいえる。また、[[周亜夫]]・[[ |
自らの擁立者でもあり、同時に政敵でもあった[[諸侯王]]に対しては穏便に接し、本来ならば無嗣断絶になる場合、また謀反を起こして廃立される場合にも、皇帝の恩恵という名目でその血縁者を求め、領地を分割させて諸侯の地位を保全させる努力を払っている。これらは後の[[呉楚七国の乱]]の原因となったと批判されているが、分割相続によって反乱を起こした諸侯王家の意思統一が困難になり、乱の早期鎮圧が可能になったともいえる。また、[[周亜夫]]・[[袁盎]]などに実直が過ぎて無礼とも取れる行いがあっても全く問わず、むしろ非常に高く評価した。子の[[景帝 (漢)|景帝]]にも何かあれば頼れと遺言しており、呉楚七国の乱の鎮圧に当たって重要な働きをすることになる。 |
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文帝の政策は、父の高祖や嫡母の呂雉、あるいは孫の[[武帝 (漢)|武帝]]の時代に比べれば、目立った業績は欠如しているが、民衆にとっては社会が安定して歓迎すべき時代が創出された。文帝の治世は次の景帝の代と合わせて「[[文景の治]]」と賞賛され、食料が食べ切れずに倉庫で腐敗したり、銭差し(銭の間に通す紐)が腐って勘定ができなくなった、などの逸話が残されている。 |
文帝の政策は、父の高祖や嫡母の呂雉、あるいは孫の[[武帝 (漢)|武帝]]の時代に比べれば、目立った業績は欠如しているが、民衆にとっては社会が安定して歓迎すべき時代が創出された。文帝の治世は次の景帝の代と合わせて「[[文景の治]]」と賞賛され、食料が食べ切れずに倉庫で腐敗したり、銭差し(銭の間に通す紐)が腐って勘定ができなくなった、などの逸話が残されている。 |
2020年8月13日 (木) 08:59時点における版
文帝 劉恒 | |
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前漢 | |
第5代皇帝 | |
病気の母に四六時中付きっきりで看病する漢文帝(奥) | |
王朝 | 前漢 |
在位期間 | 前180年11月14日 - 前157年7月6日 |
姓・諱 | 劉恒 |
諡号 | 孝文皇帝 |
廟号 | 太宗 |
生年 | 前203年 |
没年 | 前157年7月6日(旧暦6月2日) |
父 | 高祖 |
母 | 薄姫 |
后妃 | 竇皇后 |
陵墓 | 覇陵 |
文帝(ぶんてい)は、前漢の第5代皇帝(恵帝の子とされる2人の少帝(前少帝、後少帝)を除外し、第3代皇帝とする場合もある)。諱は恒(こう)。高祖劉邦の四男(庶子)。妻に竇猗房がいる。
生涯
出生
生母の薄氏は戦国時代の魏王室出身の女性を母とし、秦末の動乱期から楚漢戦争初期の頃に西魏王魏豹の後宮に入内した。許負という人相師は彼女の人相を見、いずれ皇帝を産むであろうと予言したと史書は伝えている。
劉邦との関係は、劉邦に同調し楚の項籍に対抗した魏豹が、彭城での大敗を契機に反劉邦の反乱を起こしたことに始まる。漢の大将軍韓信に再び敗れた魏豹は庶民に落とされ、劉邦の居城である滎陽に連行されるが、薄氏の一族や関係者も同行させられた。薄氏は劉邦の後宮に入って雑用に従事したが、ある日劉邦の目に留まり、寝所に召されることとなる。その後はほとんど劉邦と関係を持たなかったと言われるが、薄氏は劉恒を儲けることとなった。
代王時代
楚漢戦争が終結すると劉邦が皇帝に即位し、異姓の諸侯王が取り潰されていく中、劉恒は趙に封じられた異母兄の劉如意の後任として代王に封じられた。しかし劉恒は幼少であったため、劉邦の信任を受けた傅寛が宰相(諸侯相)に配され、後見することとなった。劉恒は代王太后(代国の王太后)となった薄氏と叔父(薄氏の弟)の薄昭とともに任国に向かい、そこで成長した。
高祖劉邦の死後、正妻であった呂雉が皇太后として実権を掌握し、劉如意など高祖の庶子を次々と殺害していったが、劉恒はこの難を逃れている。その背景には、劉恒の生母である薄氏が、劉如意の生母の戚夫人などと異なり、劉邦から寵愛されることが少なかったことが考えられる。
異母弟の趙共王劉恢の側室が正室の呂氏(呂后の甥の呂産の娘)により毒殺され、劉恢がその後を追って自害すると、呂后はその後任として劉恒の移封を検討した。劉恢や劉友ら異母弟が呂后により殺害されていることを理解していた劉恒は、代国が匈奴に近いため匈奴侵攻の防衛の重要性を理由とし、呂后に上啓して移封を辞退している(趙王には呂后の甥の呂禄が封じられた)。
皇帝即位前後
紀元前180年に呂雉が死去すると、呂氏一族は周勃・陳平ら建国の元勲、および高祖の孫である斉王劉襄・朱虚侯劉章による政変で誅滅され、劉恒が新皇帝として擁立されることとなった。
政変を実行した劉襄と劉章兄弟は、劉邦の庶長子の斉悼恵王劉肥の遺児であり、呂氏一族誅滅の功績から劉襄が皇帝に即位し、劉章は斉王に封じられると思われた。しかし呂氏一族という強大な外戚による専横を排した直後であり、強い権力欲を有する外戚を持つ斉王を皇帝に擁立すれば、再び外戚の専横が発生するという危惧が挙がった。そこで、生母が没落貴族の末裔で、権力欲が少なく人格者との評判の高い劉恒が擁立された。また、劉恒は生存する高祖の遺児の最年長者であり、長幼の順という理由も説得力も有していた。
しかし劉恒の皇帝即位に、代国から反対の声が上がった。高祖とともに戦乱の世を生き抜き、政変を起こして呂氏一族のみならず皇帝まで廃立、殺害した元勲を信用できないというものであった。皇帝即位を求める使者が長安と代国とを往復すること5度に及び、ようやく即位が実現した。即位の際に代国から長安へ上京する際、劉恒の皇帝即位に対する反対派が多くいたが、わずかに数名の側近と6騎の馬車のみで長安に入った。
このような経緯により、即位直後は文帝と元勲との関係も円滑なものでなく、文帝が法制度改革について重臣たちに下問した際も、厭味な内容の上書が行われた。しかし、元勲が政治の舞台から引退するようになると、代王時代以来の臣下を登用し、政権の主導権を確保して、着実に政治改革を推進していくことになった。
文帝の施政
文帝の基本的な政治姿勢は、高祖以来の政策を継承するもので、民力の休養と農村の活性化にあった。そのため、大規模工事は急を要するものを除き停止している。宮中で楼閣を設けようという計画が出された際にも、その経費が中流家庭10戸の資産に相当すると知って中止を命じたり、自らの陵墓を高祖や恵帝に比べて小規模なものとしている。また、文帝の在位期間は減税が数度実施され、一切の田租が免除された年もあった(ただし他の税や労役については実施されていたと考えられる)。法制度の改革では、斬首・去勢を除く肉刑の廃止を行っている。
生母である薄氏に対しては孝行を尽くし、自ら毒味役を務めたりと孝行な皇帝であるとして、後世二十四孝に数えられた。文帝は薄氏を尊重し、冤罪により周勃が逮捕された際に薄氏から叱責を受けると周勃の釈放を命じたり、臣下の諫言にもかかわらず計画していた匈奴との戦争を薄氏の説得により中止している。
自らの擁立者でもあり、同時に政敵でもあった諸侯王に対しては穏便に接し、本来ならば無嗣断絶になる場合、また謀反を起こして廃立される場合にも、皇帝の恩恵という名目でその血縁者を求め、領地を分割させて諸侯の地位を保全させる努力を払っている。これらは後の呉楚七国の乱の原因となったと批判されているが、分割相続によって反乱を起こした諸侯王家の意思統一が困難になり、乱の早期鎮圧が可能になったともいえる。また、周亜夫・袁盎などに実直が過ぎて無礼とも取れる行いがあっても全く問わず、むしろ非常に高く評価した。子の景帝にも何かあれば頼れと遺言しており、呉楚七国の乱の鎮圧に当たって重要な働きをすることになる。
文帝の政策は、父の高祖や嫡母の呂雉、あるいは孫の武帝の時代に比べれば、目立った業績は欠如しているが、民衆にとっては社会が安定して歓迎すべき時代が創出された。文帝の治世は次の景帝の代と合わせて「文景の治」と賞賛され、食料が食べ切れずに倉庫で腐敗したり、銭差し(銭の間に通す紐)が腐って勘定ができなくなった、などの逸話が残されている。
文帝の16年、「人主延寿」と瑞兆ともいうべき文字が彫られていた玉杯が発見され、その記念に改元して再び元年と称した。2度目の改元以降は「後元年」「後2年」と呼称している。
妻子
后妃
子女
登場作品
- 小説
- 宮城谷昌光『花の歳月』
- テレビドラマ
- 『劉邦の大風歌 -漢建国記-』(2009年、中国、演:リウ・ムー)
- 『美人心計〜一人の妃と二人の皇帝〜』(2012年、中国、演:サミュル・チャン)