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その後、[[章沖]]は『春秋左氏伝事類始末』を著したが、その手法は袁枢の『通鑑紀事本末』に類似するものであった。[[明]]代になると[[陳邦瞻]]の『[[宋史紀事本末]]』『[[元史紀事本末]]』、[[張鑑]]の『[[西夏紀事本末]]』などが生まれ、[[清]]代には[[高士奇]]の『[[左伝紀事本末]]』、[[李有棠]]の『[[遼史紀事本末]]』『[[金史紀事本末]]』、[[谷応泰]]の『[[明史紀事本末]]』などが著された。 |
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また清代の[[魏源]]の『聖武記』、[[王闓運]]の『[[湘軍志]]』、[[王定安]]の『湘軍記』も紀事本末体の歴史書と見なす場合がある([[梁啓超]]『中国近三百年学術史』)。その他、[[王韜]]は[[普仏戦争]]を題材に『[[普法戦紀]]』を著し、[[郭孝成]]は[[1912年]]に『中国革命紀事本末』を編纂した。 |
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[[章学誠]]は紀事本末体を評価して「文は紀伝体より簡便で、事柄は編年体よりはっきりしている」と述べている。梁啓超は「紀伝体は人を主とし、編年体は年を主としているのに対し、紀事本末体は事を主としている。歴史の原因と結果を知るには事を主としなければならない」と評した。 |
[[章学誠]]は紀事本末体を評価して「文は紀伝体より簡便で、事柄は編年体よりはっきりしている」と述べている。梁啓超は「紀伝体は人を主とし、編年体は年を主としているのに対し、紀事本末体は事を主としている。歴史の原因と結果を知るには事を主としなければならない」と評した。 |
2020年8月13日 (木) 06:35時点における版
紀事本末体(きじほんまつたい)は、紀伝体・編年体と並ぶ中国の歴史書の書式の一つ。重要な歴史的事件を選んで項目を立て、それぞれの事件の経緯を、時系列に沿って叙述するという形式である[1]。
南宋の歴史家袁枢は『資治通鑑』を愛読していた。しかし編年体で著された『資治通鑑』は歴史事件の読書に難点があった。この難点を補助するため、袁枢は『資治通鑑』の記事を並べ直し、事件ごとに項目を立てた『通鑑紀事本末』を完成させた(1174年。翌年出版)。これが紀事本末体の始まりである。
その後、章沖は『春秋左氏伝事類始末』を著したが、その手法は袁枢の『通鑑紀事本末』に類似するものであった。明代になると陳邦瞻の『宋史紀事本末』『元史紀事本末』、張鑑の『西夏紀事本末』などが生まれ、清代には高士奇の『左伝紀事本末』、李有棠の『遼史紀事本末』『金史紀事本末』、谷応泰の『明史紀事本末』などが著された。
また清代の魏源の『聖武記』、王闓運の『湘軍志』、王定安の『湘軍記』も紀事本末体の歴史書と見なす場合がある(梁啓超『中国近三百年学術史』)。その他、王韜は普仏戦争を題材に『普法戦紀』を著し、郭孝成は1912年に『中国革命紀事本末』を編纂した。
章学誠は紀事本末体を評価して「文は紀伝体より簡便で、事柄は編年体よりはっきりしている」と述べている。梁啓超は「紀伝体は人を主とし、編年体は年を主としているのに対し、紀事本末体は事を主としている。歴史の原因と結果を知るには事を主としなければならない」と評した。