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=== 満州国参加とその後の活動 ===
=== 満州国参加とその後の活動 ===
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[[1931年]](民国20年)、[[満州事変]](九・一八事変)が発生すると、趙欣伯は奉天地方維持委員会の組織に参画した。9月28日、袁金鎧・[[朝璽]]らと協議し、奉天地方維持委員会で遼寧(奉天)省政府の機能を代行することにつき決定した<ref>「地方維持委員会で遼寧省政権を代行」『[[東京朝日新聞]]』昭和6年(1931年)9月28日。</ref>。10月18日、趙は[[土肥原賢二]]の後任として[[瀋陽市|奉天市]]市長に任ぜられたが<ref>「奉天市政公署 支那側に引渡す 後任市長は趙欣伯氏」『東京朝日新聞』昭和6年(1931年)10月19日。</ref>、まもなく最高法院東北分院院長に異動した<ref name=Xu/>。翌[[1932年]](民国21年/[[大同 (満州)|大同]]元年)2月の建国最高会議においては、趙欣伯は[[臧式毅]]・[[張景恵]]らを支持して立憲[[共和制]]の採用を主張し、[[張燕卿]]ら[[君主制|帝制]]採用派と激しく対立している<ref>山室(2004)、151頁</ref>。


同年3月9日に[[満州国]]が正式に成立すると、翌10日に趙欣伯は初代[[満州国立法院|立法院]]院長に任ぜられた<ref>「満州政府の閣員 昨日正式に発表」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月11日。</ref>。[[1933年]](大同2年)3月には憲法制度調査委員も兼任<ref>郭主編(1990)、1752頁。</ref>、同年5月に憲法制度調査のため来日している<ref>「趙博士来朝 憲法制度の調査に」『東京朝日新聞』昭和8年(1933年)5月11日。</ref>。しかし日本での滞在は長期に及ぶことになり、翌[[1934年]]([[康徳]]元年)7月になると、[[満州国監察院]]が趙の「綱紀問題」の調査活動を開始し、辞任が取りざたされるまでに至る<ref>「趙欣伯氏辞職か 綱紀問題で引責」『東京朝日新聞』昭和9年(1934年)7月18日。</ref>。結局、下半身麻痺の神経痛や腎臓炎を患っていたことも加わる形で、同年10月30日に立法院長と憲法制度調査委員を「罷免」された<ref>「趙欣伯氏 罷免 当分日本滞留」『東京朝日新聞』昭和9年(1934年)10月31日。なお劉ほか編(1995)、1147頁は「10月31日免職」、郭主編(1990)、1769頁は「10月11日辞職」としている。</ref>。この人事に伴い、立法院は機能を停止して準備機関に格下げされ、秘書庁のみの組織に改組されている(その結果、秘書長の[[劉恩格]]が立法機関トップとなった)<ref>郭主編(1990)、1769頁及び劉ほか編(1995)、1148頁。</ref>。
同年3月9日に[[満州国]]が正式に成立すると、翌10日に趙欣伯は初代[[満州国立法院|立法院]]院長に任ぜられた<ref>「満州政府の閣員 昨日正式に発表」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月11日。</ref>。[[1933年]](大同2年)3月には憲法制度調査委員も兼任<ref>郭主編(1990)、1752頁。</ref>、同年5月に憲法制度調査のため来日している<ref>「趙博士来朝 憲法制度の調査に」『東京朝日新聞』昭和8年(1933年)5月11日。</ref>。しかし日本での滞在は長期に及ぶことになり、翌[[1934年]]([[康徳]]元年)7月になると、[[満州国監察院]]が趙の「綱紀問題」の調査活動を開始し、辞任が取りざたされるまでに至る<ref>「趙欣伯氏辞職か 綱紀問題で引責」『東京朝日新聞』昭和9年(1934年)7月18日。</ref>。結局、下半身麻痺の神経痛や腎臓炎を患っていたことも加わる形で、同年10月30日に立法院長と憲法制度調査委員を「罷免」された<ref>「趙欣伯氏 罷免 当分日本滞留」『東京朝日新聞』昭和9年(1934年)10月31日。なお劉ほか編(1995)、1147頁は「10月31日免職」、郭主編(1990)、1769頁は「10月11日辞職」としている。</ref>。この人事に伴い、立法院は機能を停止して準備機関に格下げされ、秘書庁のみの組織に改組されている(その結果、秘書長の[[劉恩格]]が立法機関トップとなった)<ref>郭主編(1990)、1769頁及び劉ほか編(1995)、1148頁。</ref>。

2020年8月13日 (木) 06:21時点における版

趙欣伯
『満洲國承認記念写真帖』(1932年)
プロフィール
出生: 1890年光緒16年)[1]
死去: 1951年7月20日
中華人民共和国
出身地: 清の旗 直隷省順天府宛平県
職業: 政治家・法律家
各種表記
繁体字 趙欣伯
簡体字 赵欣伯
拼音 Zhào Xīnbó
ラテン字 Chao Hsin-po
和名表記: ちょう きんはく
発音転記: ジャオ シンボー
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趙 欣伯(ちょう きんはく)は中華民国満州国の政治家・法律家。北京政府奉天派の政治家で、後に満州国、汪兆銘政権に参加した。

事績

奉天派などでの活動

清末、禁衛軍で衛兵となる。その後、省立天津北洋大学で学んだ。辛亥革命後は北京文明新劇団で旦角(女形)を演じている。また、この頃に国民党に加入した。1913年民国2年)に二次革命(第二革命)に参加したが、敗北したために大連に逃れる。劉笑痴と改名して、日本人への中国語教師をつとめた[2]

1915年(民国4年)、日本に留学する。明治大学法科を卒業して、陸軍大学校で中国語講師となった。1924年(民国13年)、東京帝国大学大学院[3]で法学博士号を取得している。1926年(民国15年)に帰国し、東三省巡閲使署法律顧問に就任する。これは、公使館付陸軍武官だった本庄繁張作霖に推薦したものとされる[4]。翌年7月、北京政府外交部条約修改委員会委員に任ぜられた。1928年(民国17年)6月、張作霖爆殺事件が発生すると、奉天省に戻る。法学研究会を組織して会長となり、雑誌『法学研究』を刊行した[2]

満州国参加とその後の活動

1931年(民国20年)、満州事変(九・一八事変)が発生すると、趙欣伯は奉天地方維持委員会の組織に参画した。9月28日、袁金鎧・闞朝璽らと協議し、奉天地方維持委員会で遼寧(奉天)省政府の機能を代行することにつき決定した[5]。10月18日、趙は土肥原賢二の後任として奉天市市長に任ぜられたが[6]、まもなく最高法院東北分院院長に異動した[2]。翌1932年(民国21年/大同元年)2月の建国最高会議においては、趙欣伯は臧式毅張景恵らを支持して立憲共和制の採用を主張し、張燕卿帝制採用派と激しく対立している[7]

同年3月9日に満州国が正式に成立すると、翌10日に趙欣伯は初代立法院院長に任ぜられた[8]1933年(大同2年)3月には憲法制度調査委員も兼任[9]、同年5月に憲法制度調査のため来日している[10]。しかし日本での滞在は長期に及ぶことになり、翌1934年康徳元年)7月になると、満州国監察院が趙の「綱紀問題」の調査活動を開始し、辞任が取りざたされるまでに至る[11]。結局、下半身麻痺の神経痛や腎臓炎を患っていたことも加わる形で、同年10月30日に立法院長と憲法制度調査委員を「罷免」された[12]。この人事に伴い、立法院は機能を停止して準備機関に格下げされ、秘書庁のみの組織に改組されている(その結果、秘書長の劉恩格が立法機関トップとなった)[13]

1937年(康徳4年)9月27日、趙欣伯は宮内府顧問官に任命されたが、これもまもなく辞任、家族とともに来日して東京に居住している[14]1939年(民国28年)、帰国して北平に入り、汪兆銘政権成立後に華北政務委員会で法律顧問となった。戦後、漢奸として国民政府に逮捕されたが、1948年(民国37年)からは病状悪化のため入院、治療を受けることになる。1951年7月20日、病没。享年62[2][4]

  1. ^ 「瀋陽“九・一八”歴史博物館」による。徐主編(2007)、2277頁によると、1887年(光緒13年)生まれ。
  2. ^ a b c d 徐主編(2007)、2277頁。
  3. ^ 徐主編(2007)、2277頁によると「学士院」とあるが、「大学院」が正しいと思われるため修正する。
  4. ^ a b 「瀋陽“九・一八”歴史博物館」。
  5. ^ 「地方維持委員会で遼寧省政権を代行」『東京朝日新聞』昭和6年(1931年)9月28日。
  6. ^ 「奉天市政公署 支那側に引渡す 後任市長は趙欣伯氏」『東京朝日新聞』昭和6年(1931年)10月19日。
  7. ^ 山室(2004)、151頁
  8. ^ 「満州政府の閣員 昨日正式に発表」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月11日。
  9. ^ 郭主編(1990)、1752頁。
  10. ^ 「趙博士来朝 憲法制度の調査に」『東京朝日新聞』昭和8年(1933年)5月11日。
  11. ^ 「趙欣伯氏辞職か 綱紀問題で引責」『東京朝日新聞』昭和9年(1934年)7月18日。
  12. ^ 「趙欣伯氏 罷免 当分日本滞留」『東京朝日新聞』昭和9年(1934年)10月31日。なお劉ほか編(1995)、1147頁は「10月31日免職」、郭主編(1990)、1769頁は「10月11日辞職」としている。
  13. ^ 郭主編(1990)、1769頁及び劉ほか編(1995)、1148頁。
  14. ^ 郭主編(1990)、1766頁及び徐主編(2007)、2277頁。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 「瀋陽“九・一八”歴史博物館」-「歴史人物」(人民網特設ページ「中国各地抗戦紀念館」)
  • 山室信一『キメラ-満洲国の肖像 増補版』中央公論新社中公新書)、2004年。ISBN 4-12-191138-5 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4 
  満州国
先代
(創設)
立法院長
1932年3月 - 1934年10月
次代
劉恩格
(立法院秘書長)