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「穆姜」の版間の差分

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[[紀元前582年]]、穆姜の娘の伯姫が[[宋 (春秋)|宋]]の[[共公 (宋)|共公]]にとつぐにあたって、[[季孫行父]](季文子)が伯姫を宋に送って帰国した。穆姜は房から出て再拝し、季孫行父の忠勤に感謝を述べ、『詩経』邶風「緑衣」の終章を歌った<ref>『春秋左氏伝』成公9年</ref>。
[[紀元前582年]]、穆姜の娘の伯姫が[[宋 (春秋)|宋]]の[[共公 (宋)|共公]]にとつぐにあたって、[[季孫行父]](季文子)が伯姫を宋に送って帰国した。穆姜は房から出て再拝し、季孫行父の忠勤に感謝を述べ、『詩経』邶風「緑衣」の終章を歌った<ref>『春秋左氏伝』成公9年</ref>。


ときに穆姜は[[叔孫僑如]]と私通していた。[[紀元前575年]]、叔孫僑如と穆姜は共謀して季孫行父と[[仲孫蔑]](孟献子)を追放し、魯国を専断しようと図った。[[晋 (春秋)|晋]]と[[楚 (春秋)|楚]]が[[エン陵の戦い|鄢陵で戦う]]にあたって、成公は晋の援軍として出陣しようとしていた。出発にあたって穆姜は季氏と孟氏を追放するよう成公に求めたが、成公は「帰ってから言うことを聞こう」といって断った。叔孫僑如は晋の[[郤シュウ|郤犨]]に賄賂を贈って、晋が季孫行父を逮捕し、叔孫僑如が仲孫蔑を殺し、魯は晋に仕える内臣となる密約を結んだ。陰謀は発覚して、叔孫僑如は追放され、斉に亡命した<ref>『春秋左氏伝』成公16年</ref>。
ときに穆姜は[[叔孫僑如]]と私通していた。[[紀元前575年]]、叔孫僑如と穆姜は共謀して季孫行父と[[仲孫蔑]](孟献子)を追放し、魯国を専断しようと図った。[[晋 (春秋)|晋]]と[[楚 (春秋)|楚]]が[[陵の戦い|鄢陵で戦う]]にあたって、成公は晋の援軍として出陣しようとしていた。出発にあたって穆姜は季氏と孟氏を追放するよう成公に求めたが、成公は「帰ってから言うことを聞こう」といって断った。叔孫僑如は晋の[[郤シュウ|郤犨]]に賄賂を贈って、晋が季孫行父を逮捕し、叔孫僑如が仲孫蔑を殺し、魯は晋に仕える内臣となる密約を結んだ。陰謀は発覚して、叔孫僑如は追放され、斉に亡命した<ref>『春秋左氏伝』成公16年</ref>。


穆姜は自分が亡くなったときのために立派な檟を選んで柩を作らせていたが、[[紀元前571年]]に[[斉姜 (魯)|斉姜]]が死去すると、穆姜を憎んでいた季孫行父にその柩を取りあげられて、斉姜の葬儀に使われた<ref>『春秋左氏伝』襄公2年</ref>。[[紀元前564年]]5月辛酉、穆姜は魯の東宮で死去した<ref>『春秋左氏伝』襄公9年</ref>。
穆姜は自分が亡くなったときのために立派な檟を選んで柩を作らせていたが、[[紀元前571年]]に[[斉姜 (魯)|斉姜]]が死去すると、穆姜を憎んでいた季孫行父にその柩を取りあげられて、斉姜の葬儀に使われた<ref>『春秋左氏伝』襄公2年</ref>。[[紀元前564年]]5月辛酉、穆姜は魯の東宮で死去した<ref>『春秋左氏伝』襄公9年</ref>。

2020年8月13日 (木) 03:09時点における版

穆姜
の公爵夫人

別称 繆姜
死去 紀元前564年
配偶者 宣公
子女 成公
伯姫
氏族 姜姓呂氏
出身諸侯国
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穆姜(ぼくきょう、生年不詳 - 紀元前564年)は、繆姜[1]ともいい、宣公の夫人で、成公の母。

の公女として生まれた。紀元前608年、魯の宣公にとついで夫人となった[2]。のちに成公と伯姫を生んだ。

宣公の弟の叔肸とその妻とのあいだに叔嬰斉(子叔声伯)が生まれたが、叔肸とその妻が正式な婚礼を挙げていなかったことから、穆姜は「妾を義理の妹とするわけにいかない」と言って叔肸の妻を追放した[3]

紀元前582年、穆姜の娘の伯姫が共公にとつぐにあたって、季孫行父(季文子)が伯姫を宋に送って帰国した。穆姜は房から出て再拝し、季孫行父の忠勤に感謝を述べ、『詩経』邶風「緑衣」の終章を歌った[4]

ときに穆姜は叔孫僑如と私通していた。紀元前575年、叔孫僑如と穆姜は共謀して季孫行父と仲孫蔑(孟献子)を追放し、魯国を専断しようと図った。鄢陵で戦うにあたって、成公は晋の援軍として出陣しようとしていた。出発にあたって穆姜は季氏と孟氏を追放するよう成公に求めたが、成公は「帰ってから言うことを聞こう」といって断った。叔孫僑如は晋の郤犨に賄賂を贈って、晋が季孫行父を逮捕し、叔孫僑如が仲孫蔑を殺し、魯は晋に仕える内臣となる密約を結んだ。陰謀は発覚して、叔孫僑如は追放され、斉に亡命した[5]

穆姜は自分が亡くなったときのために立派な檟を選んで柩を作らせていたが、紀元前571年斉姜が死去すると、穆姜を憎んでいた季孫行父にその柩を取りあげられて、斉姜の葬儀に使われた[6]紀元前564年5月辛酉、穆姜は魯の東宮で死去した[7]

脚注

  1. ^ 列女伝』孽嬖伝「魯宣繆姜」
  2. ^ 春秋左氏伝』宣公元年
  3. ^ 『春秋左氏伝』成公11年
  4. ^ 『春秋左氏伝』成公9年
  5. ^ 『春秋左氏伝』成公16年
  6. ^ 『春秋左氏伝』襄公2年
  7. ^ 『春秋左氏伝』襄公9年