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'''庾 持'''(ゆ じ、[[508年]] - [[569年]])は、[[梁 (南朝)|南朝梁]]から[[陳 (南朝)|陳]]にかけての[[文人]]・[[官僚]]。[[字]]は允徳、または元徳。[[本貫]]は[[潁川郡]][[鄢陵県]]。 |
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== 経歴 == |
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2020年8月13日 (木) 03:06時点における版
庾 持(ゆ じ、508年 - 569年)は、南朝梁から陳にかけての文人・官僚。字は允徳、または元徳。本貫は潁川郡鄢陵県。
経歴
南朝梁の長城県令の庾沙弥の子として生まれた。幼くして父を失い、学問を好んで書記を得意とした。異体字の作成を好んで、文士に非難されることが多かった。南朝梁の南平王左常侍を初任とし、軽車河東王府行参軍に転じ、尚書郎を兼ねた。まもなく正式に尚書郎となった。安吉県令として出向し、鎮東邵陵王府限外記室に転じ、建康県令を兼ねた。旧友の陳蒨が呉興郡太守となると、庾持はその下で呉興郡丞となり、郡の文書をつかさどった。陳蒨が張彪を打倒して会稽に駐屯すると、庾持は監臨海郡をつとめた。郡での収奪がひどく民情が悪化して、反乱軍に100日ほど身柄を拘束された。陳蒨が劉澄を派遣して臨海郡の乱を鎮圧すると、庾持は解放された。557年(永定元年)、陳が建国されると、安東臨川王府諮議参軍に任じられた。560年(天嘉元年)、尚書左丞に転じた。即位前の文帝(陳蒨)に仕えた旧功により、崇徳県子に封じられた。封を受けるその日に、収賄の罪で免官された。まもなく宣恵始興王府諮議参軍となった。臨安県令に任じられたが、無辜の県民を杖で撲殺した罪で封を除かれた。召還されて給事黄門侍郎となった。稜威将軍・塩官県令に任じられた。567年(光大元年)、秘書監に転じ、知国史事をつとめた。さらに少府卿となり、羽林監を兼ねた。太中大夫に転じ、歩兵校尉を兼ねた。569年(太建元年)、死去した。享年は62。光禄大夫の位を追贈された。『文集』10巻があった。