「陸慧曉」の版間の差分
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陸子真の子として生まれた。[[会稽郡]][[太守]]の[[張暢]]に幼くして見出され、「江東の裴・楽([[裴頠]]・[[楽広]])なり」と評された。州郡の召辟に応じて、秀才に挙げられ、衛尉史となり、諸府の行参軍を歴任した。老齢の母を養うため家に帰り、十数年にわたって官に仕えなかった。[[蕭道成]]が政権を掌握して南朝宋の[[順帝 (南朝宋)|順帝]]を輔弼すると、慧曉は尚書殿中郎に任じられた。一族が祝いを述べにやってくると、慧曉は酒を掲げて「陸慧曉めは年30を越えて、妻の父に引き立てられて、始めて尚書郎になった。卿らがまた祝うようなことか」と言った。蕭道成が奢侈を禁じる上表をおこなったとき、順帝の答詔の草案を慧曉が書いた。そのことについて蕭道成の賞賛を受けて、慧曉は太傅東閤祭酒として召された。[[479年]]([[建元 (南朝斉)|建元]]元年)、太子洗馬となった。[[481年]](建元3年)、武陵王[[蕭曄]]が会稽郡太守となると、慧曉はその下で征虜功曹となった。何点が豫章王[[蕭嶷]]に推薦したため、慧曉は蕭嶷の下で司空掾に任じられた。[[483年]]([[永明]]元年)、長沙王[[蕭晃]]の下で鎮軍諮議参軍となった。安陸侯[[蕭緬]]が呉郡太守となると、慧曉はその下で諮議参軍となった。[[484年]](永明2年)、始興王[[蕭鑑]]の下で前将軍安西諮議となり、冠軍録事参軍を兼ねた。司徒従事中郎に転じ、右長史となった。竟陵王[[蕭子良]]の下で西邸の書記をつとめた。 |
陸子真の子として生まれた。[[会稽郡]][[太守]]の[[張暢]]に幼くして見出され、「江東の裴・楽([[裴頠]]・[[楽広]])なり」と評された。州郡の召辟に応じて、秀才に挙げられ、衛尉史となり、諸府の行参軍を歴任した。老齢の母を養うため家に帰り、十数年にわたって官に仕えなかった。[[蕭道成]]が政権を掌握して南朝宋の[[順帝 (南朝宋)|順帝]]を輔弼すると、慧曉は尚書殿中郎に任じられた。一族が祝いを述べにやってくると、慧曉は酒を掲げて「陸慧曉めは年30を越えて、妻の父に引き立てられて、始めて尚書郎になった。卿らがまた祝うようなことか」と言った。蕭道成が奢侈を禁じる上表をおこなったとき、順帝の答詔の草案を慧曉が書いた。そのことについて蕭道成の賞賛を受けて、慧曉は太傅東閤祭酒として召された。[[479年]]([[建元 (南朝斉)|建元]]元年)、太子洗馬となった。[[481年]](建元3年)、武陵王[[蕭曄]]が会稽郡太守となると、慧曉はその下で征虜功曹となった。何点が豫章王[[蕭嶷]]に推薦したため、慧曉は蕭嶷の下で司空掾に任じられた。[[483年]]([[永明]]元年)、長沙王[[蕭晃]]の下で鎮軍諮議参軍となった。安陸侯[[蕭緬]]が呉郡太守となると、慧曉はその下で諮議参軍となった。[[484年]](永明2年)、始興王[[蕭鑑]]の下で前将軍安西諮議となり、冠軍録事参軍を兼ねた。司徒従事中郎に転じ、右長史となった。竟陵王[[蕭子良]]の下で西邸の書記をつとめた。 |
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[[490年]](永明8年)、西陽王[[蕭子明]]の下で征虜長史となった。巴陵王[[蕭子倫]]の下で後軍長史となった。[[492年]](永明10年)、臨汝公[[蕭昭文]]の下で輔国長史となり、[[南豫州]]の事務を代行した。再び西陽王蕭子明の下で左軍長史となり、会稽郡丞を兼ね、会稽郡の事務を代行した。[[494年]]([[隆昌]]元年)、晋熙王[[ |
[[490年]](永明8年)、西陽王[[蕭子明]]の下で征虜長史となった。巴陵王[[蕭子倫]]の下で後軍長史となった。[[492年]](永明10年)、臨汝公[[蕭昭文]]の下で輔国長史となり、[[南豫州]]の事務を代行した。再び西陽王蕭子明の下で左軍長史となり、会稽郡丞を兼ね、会稽郡の事務を代行した。[[494年]]([[隆昌]]元年)、晋熙王[[蕭銶]]の下で冠軍長史・[[江夏郡|江夏]]内史となり、[[郢州]]の事務を代行した。 |
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同年([[建武 (南朝斉)|建武]]元年)、西中郎長史に任じられた。まもなく黄門郎として召還され、受けないうちに吏部郎に転じた。[[明帝 (南朝斉)|明帝]]は慧曉を[[侍中]]として任用しようとしたが、体型が小さかったために取りやめられた。[[495年]](建武2年)、慧曉は晋安王[[蕭宝義]]の下で輔国将軍・鎮北司馬となった。[[498年]]([[永泰 (南朝斉)|永泰]]元年)、征北長史・[[東海郡]]太守に任じられ、[[南徐州]]の事務を代行した。入朝して五兵尚書となり、[[揚州 (古代)|揚州]]の事務を代行した。[[500年]]([[永元 (南朝斉)|永元]]2年)、右軍将軍の号を受け、監南徐州として出向した。6月、持節・都督南兗兗徐青冀五州諸軍事・輔国将軍・[[南エン州|南兗州]]刺史に任じられた。赴任してまもなく、病のため辞職して帰り、死去した。享年は62。太常の位を追贈された。 |
同年([[建武 (南朝斉)|建武]]元年)、西中郎長史に任じられた。まもなく黄門郎として召還され、受けないうちに吏部郎に転じた。[[明帝 (南朝斉)|明帝]]は慧曉を[[侍中]]として任用しようとしたが、体型が小さかったために取りやめられた。[[495年]](建武2年)、慧曉は晋安王[[蕭宝義]]の下で輔国将軍・鎮北司馬となった。[[498年]]([[永泰 (南朝斉)|永泰]]元年)、征北長史・[[東海郡]]太守に任じられ、[[南徐州]]の事務を代行した。入朝して五兵尚書となり、[[揚州 (古代)|揚州]]の事務を代行した。[[500年]]([[永元 (南朝斉)|永元]]2年)、右軍将軍の号を受け、監南徐州として出向した。6月、持節・都督南兗兗徐青冀五州諸軍事・輔国将軍・[[南エン州|南兗州]]刺史に任じられた。赴任してまもなく、病のため辞職して帰り、死去した。享年は62。太常の位を追贈された。 |
2020年8月13日 (木) 03:02時点における版
陸慧曉(りく けいぎょう、439年 - 500年)は、南朝宋から斉にかけての官僚。字は叔明。本貫は呉郡呉県。高祖父は陸玩。曾祖父は陸始。祖父は陸万載。父は陸子真。
経歴
陸子真の子として生まれた。会稽郡太守の張暢に幼くして見出され、「江東の裴・楽(裴頠・楽広)なり」と評された。州郡の召辟に応じて、秀才に挙げられ、衛尉史となり、諸府の行参軍を歴任した。老齢の母を養うため家に帰り、十数年にわたって官に仕えなかった。蕭道成が政権を掌握して南朝宋の順帝を輔弼すると、慧曉は尚書殿中郎に任じられた。一族が祝いを述べにやってくると、慧曉は酒を掲げて「陸慧曉めは年30を越えて、妻の父に引き立てられて、始めて尚書郎になった。卿らがまた祝うようなことか」と言った。蕭道成が奢侈を禁じる上表をおこなったとき、順帝の答詔の草案を慧曉が書いた。そのことについて蕭道成の賞賛を受けて、慧曉は太傅東閤祭酒として召された。479年(建元元年)、太子洗馬となった。481年(建元3年)、武陵王蕭曄が会稽郡太守となると、慧曉はその下で征虜功曹となった。何点が豫章王蕭嶷に推薦したため、慧曉は蕭嶷の下で司空掾に任じられた。483年(永明元年)、長沙王蕭晃の下で鎮軍諮議参軍となった。安陸侯蕭緬が呉郡太守となると、慧曉はその下で諮議参軍となった。484年(永明2年)、始興王蕭鑑の下で前将軍安西諮議となり、冠軍録事参軍を兼ねた。司徒従事中郎に転じ、右長史となった。竟陵王蕭子良の下で西邸の書記をつとめた。
490年(永明8年)、西陽王蕭子明の下で征虜長史となった。巴陵王蕭子倫の下で後軍長史となった。492年(永明10年)、臨汝公蕭昭文の下で輔国長史となり、南豫州の事務を代行した。再び西陽王蕭子明の下で左軍長史となり、会稽郡丞を兼ね、会稽郡の事務を代行した。494年(隆昌元年)、晋熙王蕭銶の下で冠軍長史・江夏内史となり、郢州の事務を代行した。
同年(建武元年)、西中郎長史に任じられた。まもなく黄門郎として召還され、受けないうちに吏部郎に転じた。明帝は慧曉を侍中として任用しようとしたが、体型が小さかったために取りやめられた。495年(建武2年)、慧曉は晋安王蕭宝義の下で輔国将軍・鎮北司馬となった。498年(永泰元年)、征北長史・東海郡太守に任じられ、南徐州の事務を代行した。入朝して五兵尚書となり、揚州の事務を代行した。500年(永元2年)、右軍将軍の号を受け、監南徐州として出向した。6月、持節・都督南兗兗徐青冀五州諸軍事・輔国将軍・南兗州刺史に任じられた。赴任してまもなく、病のため辞職して帰り、死去した。享年は62。太常の位を追贈された。