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*宜都王 [[蕭鏗]](宣厳)- 母は何太妃
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*(十七男、早逝)
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*晋熙王 [[蕭キュウ|蕭銶]](宣攸)- 母は陸修儀
*晋熙王 [[蕭銶]](宣攸)- 母は陸修儀
*河東王 [[蕭鉉]](宣胤)- 母は張淑妃
*河東王 [[蕭鉉]](宣胤)- 母は張淑妃



2020年8月13日 (木) 03:01時点における版

高帝 蕭道成
初代皇帝
王朝
在位期間 479年5月29日 - 482年4月11日
都城 建康
姓・諱 蕭道成
紹伯
諡号 高皇帝
廟号 太祖
生年 元嘉4年(427年
没年 建元4年3月8日
482年4月11日
蕭承之
陳道正
后妃 ない
陵墓 泰安陵
年号 建元 : 479年 - 482年

蕭 道成(しょう どうせい)は、南朝(南斉)の初代皇帝

家系

蕭道成の一族である蘭陵蕭氏は、東海郡蘭陵県(現在の山東省臨沂市蘭陵県)を本貫とし、前漢丞相である蕭何の子孫と称した。蕭道成自身は蕭何の24世の孫と称した。高祖父の蕭整の代に華北の混乱を避けて江南に渡り、晋陵郡武進県(現在の江蘇省常州市武進区)に居住するようになった。東晋によってこの地に南蘭陵郡蘭陵県が僑置された。父の蕭承之初に武功があったが、当時の貴族制社会においては軍人は寒門(低い家格の出身者)でしかなかった。

生涯

元嘉24年(447年)に雍州刺史蕭思話の参軍となり、対北魏戦に戦功を挙げた。明帝より驍騎将軍・西陽県侯・南兗州刺史に任じられ、淮陰にて北魏に対抗した。淮陰では自費で兵士を集めて勢力を拡大し、一時は明帝に叛乱を疑われることもあったが、明帝が崩御する際に右衛将軍・衛尉に進んだ。

元徽2年(474年)に後廃帝の叔父の桂陽王劉休範の反乱が発生したが、これを蕭道成が鎮圧した。この武功により中領軍となり、禁軍を掌握して独裁体制を築いた。元徽5年(477年)、これに危機感を抱いた後廃帝は蕭道成を誅殺しようと計画したが、これに対して先手を打って後廃帝を殺害、順帝を擁立し、自らは侍中司空録尚書事・驃騎大将軍となった。

蕭道成の専横に反対する沈攸之袁粲劉秉らが兵を起こすが、これを鎮圧して朝政を掌握、昇明3年(479年)に相国・斉王となり、順帝より禅譲を受けて斉を建てた。

即位した高帝は、権力掌握の時期から建国後にかけて宋の皇族を多数殺害した(禅譲した順帝も殺害されている)ために不評を買った。内政面では戸籍の整備を行い部曲(私兵)の制限を行うなどの政策を実施し、自らは倹約に励み、斉は次代の武帝の代まで治世としては小康状態を保った。しかし安定した国情を造出したとは言い難く、斉は23年しか存続しなかった。

妻子

后妃

  • 劉智容(即位前に没した。皇后を追贈された)
  • 羅太妃
  • 任太妃
  • 何太妃
  • 謝貴嬪
  • 陸修儀
  • 袁修容
  • 区貴人
  • 張淑妃
  • 李美人

男子

  • 武帝 蕭賾(宣遠)- 母は劉皇后
  • 豫章文献王 蕭嶷 - 母は劉皇后
  • 臨川献王 蕭映(宣光)- 母は謝貴嬪
  • 長沙威王 蕭晃(宣明)- 母は謝貴嬪
  • 武陵昭王 蕭曄(宣照)- 母は羅太妃
  • 安成恭王 蕭暠(宣曜)- 母は任太妃
  • 鄱陽王 蕭鏘(宣韶)- 母は陸修儀
  • 桂陽王 蕭鑠(宣朗)- 母は袁修容
  • (九男、早逝)
  • 始興簡王 蕭鑑(宣徹)- 母は何太妃
  • 衡陽王 蕭鈞(宣礼)- 母は区貴人
  • 江夏王 蕭鋒(宣穎)- 母は張淑妃
  • (十三男、早逝)
  • (十四男、早逝)
  • 南平王 蕭鋭(宣毅)- 母は李美人
  • 宜都王 蕭鏗(宣厳)- 母は何太妃
  • (十七男、早逝)
  • 晋熙王 蕭銶(宣攸)- 母は陸修儀
  • 河東王 蕭鉉(宣胤)- 母は張淑妃

女子

  • 義興憲公主(長女、沈文和に嫁ぐ)
  • 淮南長公主(次女、王暕に嫁ぐ)
  • 臨海長公主(三女、王彬に嫁ぐ)
先代
の初代皇帝
479年 - 482年
次代
武帝