コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「杜懐宝」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
13行目: 13行目:
*杜嶷
*杜嶷
*杜岌
*杜岌
*杜巚(南陽郡[[太守]]。岳陽王[[蕭サツ|蕭詧]]に南陽を攻め落とされて殺害された)
*杜巚(南陽郡[[太守]]。岳陽王[[蕭詧]]に南陽を攻め落とされて殺害された)
*杜岸(字は公衡。湘東王[[元帝 (南朝梁)|蕭繹]]に仕えて、平北将軍・北梁州刺史。襄陽の蕭詧を攻撃して敗戦し、兄の杜巚を頼ったが、兄とともに南陽で殺害された)
*杜岸(字は公衡。湘東王[[元帝 (南朝梁)|蕭繹]]に仕えて、平北将軍・北梁州刺史。襄陽の蕭詧を攻撃して敗戦し、兄の杜巚を頼ったが、兄とともに南陽で殺害された)
*[[杜崱]]
*[[杜崱]]

2020年8月13日 (木) 03:01時点における版

杜懐宝(杜懷寶、と かいほう、生年不詳 - 539年)は、南朝梁軍人本貫京兆郡杜陵県

経歴

南朝斉の給事中の杜霊啓の子として生まれた。501年永元3年)、蕭衍が軍を発して東下すると、懐宝は南平王蕭偉に従って襄陽の留守をまもった。天監年間、功績により官は驍猛将軍・梁州刺史に上った。

525年普通6年)、懐宝は壮武将軍として、雍州刺史の晋安王蕭綱の命により北伐に参加し、長史の柳津や司馬の董当門や振遠将軍の曹義宗らとともに南陽郡新野郡を攻略し、北魏南荊州刺史の李志を安昌城で降した。

535年大同元年)、北魏の梁州刺史の元羅が降伏すると、懐宝は督華州に進んだ。武興王楊紹先が反乱を起こすと、懐宝はこれを撃破した。539年(大同5年)、鎮で死去した。

子女

  • 杜嵩
  • 杜岑
  • 杜嶷
  • 杜岌
  • 杜巚(南陽郡太守。岳陽王蕭詧に南陽を攻め落とされて殺害された)
  • 杜岸(字は公衡。湘東王蕭繹に仕えて、平北将軍・北梁州刺史。襄陽の蕭詧を攻撃して敗戦し、兄の杜巚を頼ったが、兄とともに南陽で殺害された)
  • 杜崱
  • 杜嵸
  • 杜幼安

伝記資料