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2020年8月13日 (木) 03:00時点における版
劉孝勝(りゅう こうしょう、生没年不詳)は、南朝梁の官僚。本貫は彭城郡彭城県安上里。
経歴
斉の大司馬霸府従事中郎の劉絵の五男として生まれた。邵陵王蕭綸の下で法曹をつとめ、湘東王蕭繹の下に転じて安西主簿や記室となり、入朝して尚書左丞となった。信義郡太守として出向したが、公務上の事件のために免官された。長らくを経て、尚書右丞として復帰し、散騎常侍を兼ねた。542年(大同8年)、東魏への使者に立った[1]。帰国すると、武陵王蕭紀の下で安西長史・蜀郡太守となった。552年(太清6年)、蕭紀が蜀で帝位を称すると、孝勝は尚書僕射となった。553年(承聖2年)、蕭紀に従って峽口に進出し、元帝(蕭繹)の軍に敗れて捕らえられた。まもなく元帝により釈放され、司徒右長史として起用された。554年(承聖3年)、西魏の侵攻を受けて江陵が陥落すると、文章の才能により蕭詧に任用された[2]。なお、晩年については定かではない。
脚注
とくに注記しない部分については、下記の『梁書』および『南史』列伝の記述に基づく。
伝記資料
- 『梁書』巻41 列伝第35
- 『南史』巻39 列伝第29