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天保24年([[585年]])に崩御。子の[[蕭琮]]が帝位を嗣いだ。 |
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2020年8月13日 (木) 02:56時点における版
明帝 蕭巋 | |
---|---|
後梁 | |
第2代皇帝 | |
王朝 | 後梁 |
在位期間 | 562年 - 585年 |
姓・諱 | 蕭巋 |
字 | 仁遠 |
諡号 | 明皇帝 |
廟号 | 世宗 |
生年 | 大同8年(542年) |
没年 | 天保24年(585年) |
父 | 宣帝 |
母 | 曹貴嬪 |
后妃 | 張皇后 |
陵墓 | 顕陵 |
年号 | 天保 : 562年 - 585年 |
蕭 巋(しょう き)は、南朝後梁の第2代皇帝。諡号は明皇帝で、明帝と呼ばれる。
生涯
大定18年(562年)、父の宣帝の崩御により皇位を継ぐ。後梁は事実上北周の傀儡政権であり、北周とともに南朝の陳と対峙した。
天保16年(577年)に北周が北斉を滅ぼした際には、自ら北周の都長安に出向いて当時の皇帝たる武帝に祝賀の言葉を述べた。このふたりの皇帝はほぼ同年代であった。その際、武帝は明帝の優美な立ち居振る舞いに魅せられ、一方の明帝は武帝に後梁建国以来の恩義を語り、ふたりはともに涙ぐんだ。明帝が後梁に帰る際には、武帝自らが琵琶を弾いて盛大に見送り、2人で軽口を叩き合った。このように個人的にも親密な関係を築いていったから、明帝は傀儡政権の皇帝という不安定な立場ではあるものの、北周と友好的な関係を築くことに成功した。その結果、北周は後梁の都江陵に駐在させていた将軍を引き上げさせ、後梁の自治が回復された。
その後、宗主国が北周から隋へと変わった後もその親密な関係は続き、明帝が再び長安を訪れた際には、隋の文帝は自ら明帝の手を取り「必ず梁の旧地を取り戻して送り届ける」と言ったと伝えられる。また、明帝の娘は楊堅の次男の楊広(後の煬帝)に嫁ぎ、楊広が皇帝に即位した際には皇后となっている(煬愍蕭皇后)。
このような安定した政権の下、江陵では梁から受け継いだ文化が花開いた。また、明帝自身も学才があり、『孝経』、『周易義記』、『大小乗幽微』などを著した。
妻子
后妃
- 張皇后(張纘の娘)
男子
女子
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