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[[563年]](天嘉4年)、[[陳宝応]]が留異と結び、[[周迪]]を従えて[[臨川郡]]に進出してきた。文帝は[[信義郡]]太守の余孝頃を派遣して海道から[[晋安郡]]を襲撃させ、文季はこの先鋒をつとめて、連戦連勝した。[[564年]](天嘉5年)、陳宝応の乱が平定されると、文季は凱旋して府諮議参軍に転じ、中直兵を兼ねた。[[臨海郡]]太守として出向した。まもなく父の霊洗の駐屯する[[郢州]]城におもむいて父を補佐した。[[567年]]([[光大]]元年)、[[華皎]]の乱にあたっては、文季は父とともに郢州の防衛にあたった。[[568年]](光大2年)、父が死去すると、文季はその部下を引き継ぎ、超武将軍として郢州に駐屯した。文季は軍中にあって服喪の礼に従えなかったが、哀毀して身を痩せ細らせた。
[[563年]](天嘉4年)、[[陳宝応]]が留異と結び、[[周迪]]を従えて[[臨川郡]]に進出してきた。文帝は[[信義郡]]太守の余孝頃を派遣して海道から[[晋安郡]]を襲撃させ、文季はこの先鋒をつとめて、連戦連勝した。[[564年]](天嘉5年)、陳宝応の乱が平定されると、文季は凱旋して府諮議参軍に転じ、中直兵を兼ねた。[[臨海郡]]太守として出向した。まもなく父の霊洗の駐屯する[[郢州]]城におもむいて父を補佐した。[[567年]]([[光大]]元年)、[[華皎]]の乱にあたっては、文季は父とともに郢州の防衛にあたった。[[568年]](光大2年)、父が死去すると、文季はその部下を引き継ぎ、超武将軍として郢州に駐屯した。文季は軍中にあって服喪の礼に従えなかったが、哀毀して身を痩せ細らせた。


[[570年]]([[太建]]2年)、[[豫章郡]]内史となった。服喪の期間を終えると、重安県公の封を嗣いだ。都督の[[章昭達]]の下で[[後梁 (南朝)|後梁]]の[[蕭キ|蕭巋]]を討った。後梁と[[北周]]は多くの戦艦を造って、青泥の水上を置いていたが、文季は[[銭道ソウ|銭道戢]]とともに軽舟で襲撃し、それらの戦艦を焼き尽くした。章昭達は後梁の軍の油断を見計らって、文季にその外城を夜襲させ、多数の梁兵を殺傷した。北周の軍が大規模に出動してくると、陳軍は一戦して敗れ、[[巴陵郡]]内史の雷道勤が戦死し、文季は身ひとつで逃亡した。功績により通直散騎常侍・安遠将軍の位を加えられた。
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[[573年]](太建5年)、都督の[[呉明徹]]が北伐の軍を起こすと、文季はこれに従軍した。呉明徹が[[秦郡]]を攻撃するにあたって、秦郡の南には涂水があり、[[北斉]]の兵は巨大な柱を杭打ちして、水中に柵を立てて陳軍の進撃をはばんだ。文季は精鋭を率いてその柵をこじ開け、呉明徹が大軍を率いてその後に続き、秦郡を攻め落とした。また文季は[[涇州]]を包囲して落とし、盱眙に進攻して陥落させた。さらに呉明徹の下で寿陽を包囲した。文季は戦いのたびごとに先鋒をつとめ、斉軍はかれをおそれて程虎と呼んだ。功績により散騎常侍・明威将軍の位を受けた。また新安郡内史を兼ね、武毅将軍の号に進んだ。
[[573年]](太建5年)、都督の[[呉明徹]]が北伐の軍を起こすと、文季はこれに従軍した。呉明徹が[[秦郡]]を攻撃するにあたって、秦郡の南には涂水があり、[[北斉]]の兵は巨大な柱を杭打ちして、水中に柵を立てて陳軍の進撃をはばんだ。文季は精鋭を率いてその柵をこじ開け、呉明徹が大軍を率いてその後に続き、秦郡を攻め落とした。また文季は[[涇州]]を包囲して落とし、盱眙に進攻して陥落させた。さらに呉明徹の下で寿陽を包囲した。文季は戦いのたびごとに先鋒をつとめ、斉軍はかれをおそれて程虎と呼んだ。功績により散騎常侍・明威将軍の位を受けた。また新安郡内史を兼ね、武毅将軍の号に進んだ。

2020年8月13日 (木) 02:54時点における版

程文季(てい ぶんき、生年不詳 - 579年)は、南朝陳軍人は少卿。本貫新安郡海寧県

経歴

程霊洗の子として生まれた。幼くして騎射を学び、果断なことでは父の風があった。弱冠にして父の征戦に従軍して、必ず軍の先頭に立った。557年永定元年)、陳が建国され、沌口の敗戦により父が王琳に捕らえられた。陳霸先は囚われの諸将の子弟を厚遇し、文季が最も礼容があったため、陳霸先は文季を賞賛した。永定年間、文季は通直散騎侍郎・句容県令となった。

559年(永定3年)、陳の文帝が即位すると、文季は宣恵始興王府限内中直兵参軍に任じられた。561年天嘉2年)、始興王陳伯茂揚州刺史となり、冶城に駐屯すると、文季は府中の軍事をすべて委ねられた。貞毅将軍・新安郡太守に任じられ、侯安都の下で留異の乱を討った。留異に呼応した向文政が新安郡に拠っていたため、文季は精兵300を率いて向文政を攻撃した。向文政は甥の向瓚に迎撃を命じたが、文季は向瓚の軍を撃破し、向文政を降伏させた。562年(天嘉3年)、始興王陳伯茂が東揚州に出て駐屯すると、文季は鎮東府中兵参軍となり、剡県令を兼ねた。

563年(天嘉4年)、陳宝応が留異と結び、周迪を従えて臨川郡に進出してきた。文帝は信義郡太守の余孝頃を派遣して海道から晋安郡を襲撃させ、文季はこの先鋒をつとめて、連戦連勝した。564年(天嘉5年)、陳宝応の乱が平定されると、文季は凱旋して府諮議参軍に転じ、中直兵を兼ねた。臨海郡太守として出向した。まもなく父の霊洗の駐屯する郢州城におもむいて父を補佐した。567年光大元年)、華皎の乱にあたっては、文季は父とともに郢州の防衛にあたった。568年(光大2年)、父が死去すると、文季はその部下を引き継ぎ、超武将軍として郢州に駐屯した。文季は軍中にあって服喪の礼に従えなかったが、哀毀して身を痩せ細らせた。

570年太建2年)、豫章郡内史となった。服喪の期間を終えると、重安県公の封を嗣いだ。都督の章昭達の下で後梁蕭巋を討った。後梁と北周は多くの戦艦を造って、青泥の水上を置いていたが、文季は銭道戢とともに軽舟で襲撃し、それらの戦艦を焼き尽くした。章昭達は後梁の軍の油断を見計らって、文季にその外城を夜襲させ、多数の梁兵を殺傷した。北周の軍が大規模に出動してくると、陳軍は一戦して敗れ、巴陵郡内史の雷道勤が戦死し、文季は身ひとつで逃亡した。功績により通直散騎常侍・安遠将軍の位を加えられた。

573年(太建5年)、都督の呉明徹が北伐の軍を起こすと、文季はこれに従軍した。呉明徹が秦郡を攻撃するにあたって、秦郡の南には涂水があり、北斉の兵は巨大な柱を杭打ちして、水中に柵を立てて陳軍の進撃をはばんだ。文季は精鋭を率いてその柵をこじ開け、呉明徹が大軍を率いてその後に続き、秦郡を攻め落とした。また文季は涇州を包囲して落とし、盱眙に進攻して陥落させた。さらに呉明徹の下で寿陽を包囲した。文季は戦いのたびごとに先鋒をつとめ、斉軍はかれをおそれて程虎と呼んだ。功績により散騎常侍・明威将軍の位を受けた。また新安郡内史を兼ね、武毅将軍の号に進んだ。

576年(太建8年)、持節・都督譙州諸軍事・安遠将軍・譙州刺史となった。この年のうちに督北徐徐二州諸軍事・北徐州刺史となった。577年(太建9年)、再び呉明徹の北伐に従い、呂梁に堰を作って徐州を水攻めにした。578年(太建10年)春、呂梁の戦いに敗戦して、北周に捕らえられ、開府儀同三司の位を受けた。579年(太建11年)、北周から逃げ帰ろうと、渦陽まで到達したが、辺吏に捕らわれて、長安に送り返され、獄中で死去した。583年至徳元年)にはじめてその死が陳に伝わり、後主により散騎常侍の位を追贈された。追って重安県侯に降封された。

子の程饗(程響とも)がその封を嗣いだ。

伝記資料