コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「李堈」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
50行目: 50行目:
**:伯爵[[廣橋眞光]]の養妹。[[高松松平家]]分家の[[松平胖]]長女。1931年結婚、1951年離婚。2男1女のうち1男1女は母親が引き取る。
**:伯爵[[廣橋眞光]]の養妹。[[高松松平家]]分家の[[松平胖]]長女。1931年結婚、1951年離婚。2男1女のうち1男1女は母親が引き取る。
*次男 [[李グウ|李{{lang|ko|鍝}}]](り ぐう、1912年 - 1945年)
*次男 [[李グウ|李{{lang|ko|鍝}}]](り ぐう、1912年 - 1945年)
*:母は側室金興仁。[[興宣大院君]](高宗の父)の嫡孫・[[李ジュン鎔|李埈公]]の公位を継承する。[[広島市|広島]]で[[広島市への原子爆弾投下|原爆]]により死亡。
*:母は側室金興仁。[[興宣大院君]](高宗の父)の嫡孫・[[李鎔|李埈公]]の公位を継承する。[[広島市|広島]]で[[広島市への原子爆弾投下|原爆]]により死亡。
**{{lang|ko|鍝}}公妃 朴賛珠(1914年 - 1995年)
**{{lang|ko|鍝}}公妃 朴賛珠(1914年 - 1995年)
**:[[朝鮮貴族]]の侯爵[[朴泳孝]]の孫娘。1935年結婚。終戦時、次男とともに[[京城府]]([[ソウル特別市|ソウル]])にいたため、[[在日朝鮮人]]とはならず、韓国籍に移行。
**:[[朝鮮貴族]]の侯爵[[朴泳孝]]の孫娘。1935年結婚。終戦時、次男とともに[[京城府]]([[ソウル特別市|ソウル]])にいたため、[[在日朝鮮人]]とはならず、韓国籍に移行。

2020年8月13日 (木) 02:42時点における版

李堈
李堈
各種表記
ハングル 이강
漢字 李堈
発音: イ ガン
日本語読み: り こう
ローマ字 I Gang
英語 Yi Kang
テンプレートを表示

李 堈(り こう(日本語読み)、イ・ガン(朝鮮語読み)、1877年3月30日 - 1955年8月17日)は、大韓帝国の皇族(親王)、のち大日本帝国公族朝鮮第26代国王・大韓帝国初代皇帝高宗の五男。

生涯

韓国併合以前

朝鮮国王高宗の五男として誕生する。母は貴人張氏。異母兄に純宗、異母弟に皇太子・李王となった李垠がいる。

1892年1月に義和君となり、翌1893年に金思濬の娘と結婚する。1894年に日清戦争の祝賀使として日本に訪問した。翌年には欧米各国を歴訪した。その後、慶應義塾大学やアメリカの大学に留学した。その間に朝鮮は大韓帝国となり、義親王に封じられた。

1905年に帰国し、翌年に大韓帝国最高位の勲章である大勲位金尺大綬章が授与された。

韓国併合以後

韓国併合により1910年8月、「公」に封ぜられて恩賜公債84万円を賜り、日本の公族の身分となった。李家は、併合前の財産と恩賜公債の利子で年間4万円の収入があったが、李の散財により瞬く間に家政が逼迫した。李王職が公家を監督しようとすると、李はそれに反発し、金策に奔走して詐欺事件まで起こした。

朝鮮独立運動組織「大同団」は、こうした李に目を付け、「金は出すから、朝鮮から出て独立運動の象徴となってほしい」と彼を騙し、李公誘拐事件を起こすに至っている。

こうした李の行動は、後に制定された王公家軌範第69条の「其ノ品位ヲ辱ムルノ所行」に相当する行為であったが、王公家軌範制定前で王公族を懲戒する法的根拠がなかったため、李王(純宗)が本人を呼び出して誓約書を書かせるのが精一杯であった。

王公家軌範制定後の1930年6月12日に隠居し、公位は長男の李鍵が継承した。

栄典

李堈妃金氏

家族

妃は金氏(金思濬長女、1880年1月21日 - 1964年1月14日)である。1893年12月6日に結婚した。この他に数多くの側室[6]がいる。

子女は以下の通りである。

以下は王公族とされなかった庶出の子女である。

  • 三男 鎊(パン、1914年 - 1951年)
  • 四男 鎗(チャン、1915年 - )
  • 五男 鑄(チュ、1918年 - 1982年)
  • 六男 錕(コン、1920年 - )
  • 七男 鑛(クァン、1921年 - 1952年)
  • 八男 鉉(ヒョン、1922年 - 1998年)
  • 九男 (カプ、1938年 - 2014年) 李源の父。
  • 十男 (ソク、1941年 - )全州李氏宗親会会長
  • 十一男 鍰(ファン、1944年 - )
  • 十二男 錠(チョン、1947年 - )
  • 長女 海琬(ヘワン、1915年 - 1981年)
  • 次女 海瑗(ヘウォン、1919年 - )
  • 三女 海珺(ヘチュン、1920年 - 2009年) 夫:朴賛汎(離縁)
  • 四女 海璛(ヘソク、1920年 - )
  • 五女 海瓊(ヘギョン、1930年 - )
  • 六女 恵子(ヒジャ、1940年 - )
  • 七女 海珃(ヘラン、1944年 - )
  • 八女 海瑢(ヘリョン、1950年 - )
  • 九女 昌恵(チャンヒ、1951年 - )

系図

李堈(義親王)の親類・近親・祖先の詳細

脚注

  1. ^ 『官報』第3411号、「叙任及辞令」1924年1月9日。p.53
  2. ^ 『官報』第1499号、「叙任及辞令」1931年12月28日。p.742
  3. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  4. ^ 『官報』第3411号「叙任及辞令」1924年1月9日。p.54
  5. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  6. ^ 彼女らは全て朝鮮人というわけでなく、内地人日本人)の妾も確認されるだけで2人いた。

参考文献