「遊佐木斎」の版間の差分
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[[陸奥国]][[栗原郡]]において、[[仙台藩]]・[[伊達家]]に仕える武士の家に生まれる。17歳で君命により[[大島良設]]に学び、その後、[[京都]]に出て[[米川操軒]]・[[中村惕斎]]に学び、のち[[山崎闇斎]]に師事。[[天和 (日本)|天和]]年間に仙台藩儒員となり藩主・[[伊達綱村]]に近侍して[[垂加神道|垂加流神道]]を進講。藩史の編纂に従事し、その功績により番頭となる。その門から[[佐久間洞厳]]・[[菅原南山]]・[[高橋玉斎]]・[[国分悔愆]]などを出した。77歳で没する。 |
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2020年8月13日 (木) 02:24時点における版
遊佐 木斎(ゆさ ぼくさい、万治元年12月16日(1659年1月8日) - 享保19年10月16日(1734年11月11日))は江戸時代中期の儒学者。名は養順、のちに好生と改めた。通称は清兵衛、あるいは次郎左衛門、木斎と号す。
生涯
陸奥国栗原郡において、仙台藩・伊達家に仕える武士の家に生まれる。17歳で君命により大島良設に学び、その後、京都に出て米川操軒・中村惕斎に学び、のち山崎闇斎に師事。天和年間に仙台藩儒員となり藩主・伊達綱村に近侍して垂加流神道を進講。藩史の編纂に従事し、その功績により番頭となる。その門から佐久間洞厳・菅原南山・高橋玉斎・国分悔愆などを出した。77歳で没する。
思想
山崎闇斎に師事して後は儒学のみならず神道の研究に力を入れ、闇斎と同じく皇統が永遠に続くべきであると主張し、放伐を否定する。同時代の室鳩巣と論争し、中国に対する日本の「一王一統の政治」の優位を説いた[1]。
著書
- 『敬説』
- 『皇極内篇発微』
- 『人倫箴』2巻
- 『孿生抄』
- 『四十七士論』
- 『遊佐氏紀念録』…編年体の自伝。『木斎紀年録』ともいう。
参考文献
- 平泉澄編『闇斎先生と日本精神』(至文堂、1939年)
- 平泉澄『万物流転』(至文堂)
- 小野壽人校訂・註釋『神儒問答』(日本學叢書第5卷、雄山閣、1939年)
- 平重道「垂加学者としての遊佐木斎」(同『近世日本思想史研究』吉川弘文館、1969年所収)
- 平重道解題『木斎紀年録』(仙臺叢書第4巻、宝文堂、1971年)
脚注
- ^ 平重道『近世日本思想史研究』吉川弘文館、1969年、236-237p頁。