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* 『[[彼女の運命#1924年 日活京都版|彼女の運命]]』 : 監督鈴木謙作、日活京都撮影所第二部、1924年
* 『[[彼女の運命#1924年 日活京都版|彼女の運命]]』 : 監督鈴木謙作、日活京都撮影所第二部、1924年
* 『[[月形半平太]]』 : 監督[[高橋寿康]]、日活大将軍撮影所、1926年
* 『[[月形半平太]]』 : 監督[[高橋寿康]]、日活大将軍撮影所、1926年
* 『[[弥次多 (1927年の映画)|弥次喜多]]』 : 監督[[池田富保]]、[[日活太秦撮影所]]、1927年
* 『[[弥次多 (1927年の映画)|弥次喜多]]』 : 監督[[池田富保]]、[[日活太秦撮影所]]、1927年
* 『[[建国史 尊王攘夷]]』 : 監督池田富保、日活太秦撮影所、1927年
* 『[[建国史 尊王攘夷]]』 : 監督池田富保、日活太秦撮影所、1927年
* 『[[弥次多 (1927年の映画)|弥次喜多 尊王の巻]]』 : 監督池田富保、日活太秦撮影所、1927年
* 『[[弥次多 (1927年の映画)|弥次喜多 尊王の巻]]』 : 監督池田富保、日活太秦撮影所、1927年
* 『[[弥次多 (1927年の映画)|弥次喜多 韋駄天の巻]]』 : 監督池田富保、日活太秦撮影所、1928年
* 『[[弥次多 (1927年の映画)|弥次喜多 韋駄天の巻]]』 : 監督池田富保、日活太秦撮影所、1928年
* 『[[弥次多 (1927年の映画)|弥次喜多 伏見鳥羽の巻]]』 : 監督池田富保、日活太秦撮影所、1928年
* 『[[弥次多 (1927年の映画)|弥次喜多 伏見鳥羽の巻]]』 : 監督池田富保、日活太秦撮影所、1928年
* 『[[続水戸黄門]]』 : 監督池田富保、日活太秦撮影所、1928年 - 女房お幾
* 『[[続水戸黄門]]』 : 監督池田富保、日活太秦撮影所、1928年 - 女房お幾
* 『[[維新の京洛 竜の巻・虎の巻]]』 : 監督池田富保、日活太秦撮影所、1928年
* 『[[維新の京洛 竜の巻・虎の巻]]』 : 監督池田富保、日活太秦撮影所、1928年

2020年8月12日 (水) 21:34時点における版

さかい よねこ
酒井 米子
本名 酒井 よね子 さかい よねこ
生年月日 (1898-11-25) 1898年11月25日
没年月日 (1958-10-15) 1958年10月15日(59歳没)
職業 女優
ジャンル 新劇サイレント映画
活動期間 1904年 - 1940年前後
活動内容 1904年 伊庭孝一座
1911年 井上正夫一座
1920年 日活向島撮影所
1921年 松竹蒲田撮影所
1923年 日活向島撮影所復帰
1923年 日活大将軍撮影所
1932年 フリーランス
著名な家族 茅原ますみ(孫)
笠井信輔(孫婿)
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酒井 米子(さかい よねこ、1898年11月25日 - 1958年10月15日[1])は、日本の女優である。本名は酒井 よね子(さかい よねこ)。身長5尺2寸(157.5センチメートル)、体重12貫500匁(46.8キログラム)[2]

人物・来歴

1898年(明治31年)11月25日東京府東京市神田区旭町(現在の東京都千代田区神田内神田)に生まれる[1][2]

1904年(明治37年)、伊庭孝率いる「伊庭孝一座」で初舞台を踏んでいる[2]。満13歳を迎える1911年(明治44年)、井上正夫率いる有楽座「井上正夫一座」に入団する[1][2][3]。『ディオゲネスの誘惑』のイノ役、『野鴨』のヘツドヰヒ役を演じた[2]芸術座に加入しようとするが、松井須磨子に反対される[1]

1920年(大正9年)2月、日活向島撮影所に「同撮影所最初の女優」として入社し[3]、新劇部門の第三部設立第1作、田中栄三監督の『朝日さす前』に出演、同作は同年12月31日に公開され、大正10年の正月映画の主演として映画界にデビューした[1][2][3]

1921年(大正10年)3月、日活を退社、翌1922年(大正11年)7月に松竹蒲田撮影所に移籍する[2]。1923年(大正12年)、日活向島撮影所に復帰する[2]。同年9月1日の関東大震災により撮影所が壊滅、日活大将軍撮影所に異動となる。のちに現代劇から時代劇に転向し、スター女優、幹部俳優となる[1][2]

1932年(昭和7年)7月、日活を退社し、「酒井米子一座」を結成、舞台実演の巡業を行った[1][2]。以降、フリーランスの俳優となる[2]

1958年(昭和33年)10月15日、死去した[1]。満59歳没。

テレビ東京でアナウンサーを務めた茅原ますみは孫で、その夫は元フジテレビアナウンサーの笠井信輔

おもなフィルモグラフィ

  1. ^ a b c d e f g h 酒井米子、『講談社 日本人名大辞典』、講談社コトバンク、2010年2月23日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『日本映画俳優名鑑』、映画世界社、1934年、「酒井米子」の項。
  3. ^ a b c 『昭和4年度「日本俳優名鑑」映画俳優の部』、「芝居とキネマ」昭和4年1月号新春付録、1929年1月、「酒井米子」の項。

関連項目

外部リンク