「李雲竜」の版間の差分
リンク調整 |
m Bot作業依頼: 靳姓の各人物記事の改名に伴うリンク修正依頼 (靳雲鶚) - log |
||
42行目: | 42行目: | ||
|- |
|- |
||
! {{CHN1912}}([[北京政府]]) |
! {{CHN1912}}([[北京政府]]) |
||
{{先代次代|[[陝西省 (中華民国)|陝西]]督弁|<small>[[1926年]]1月 - 4月</small>|[[孫岳]]|[[ |
{{先代次代|[[陝西省 (中華民国)|陝西]]督弁|<small>[[1926年]]1月 - 4月</small>|[[孫岳]]|[[靳雲鶚]]}} |
||
|} |
|} |
||
2020年8月12日 (水) 09:33時点における版
李雲竜 | |
---|---|
プロフィール | |
出生: | 1890年(清光緒16年) |
死去: |
1954年 中国 |
出身地: | 清陝西省西安府渭南県(現・臨潼県) |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 李雲龍 |
簡体字: | 李云龙 |
拼音: | Lǐ Yúnlóng |
ラテン字: | Li Yün-lung |
和名表記: | り うんりゅう |
発音転記: | リー ユンロン |
李 雲竜(り うんりゅう)は、中華民国の軍人。北京政府、直隷派、国民軍に属した。原名は秉信。字は虎臣。号は実生。
事跡
1911年(宣統3年)10月の西安起義に参加する。その後は陝西省革命派人士である張雲山の配下となった。李雲竜は護国戦争(第三革命)にも参加する。さらに1918年(民国7年)1月に胡景翼らが三原で陝西督軍陳樹藩との戦いを開始すると、これにも参加した。胡が組織した陝西靖国軍で李は第2支隊司令となり、同年8月には第4路第4支隊司令となった。
1924年(民国13年)の北京政変(首都革命)を経て、胡景翼は馮玉祥率いる国民軍に加わり、李雲竜も国民軍第2軍第10旅旅長に就任した。1925年(民国14年)には、河南省をめぐる胡と憨玉琨との戦い(胡憨之戦)に参加している。胡急逝後の民国14年(1925年)8月、陝西軍務善後事宜兼河南国民軍第2混成旅旅長に任命された。
馮玉祥が西北国民軍総司令兼甘粛督弁に任命されると、李は1926年(民国15年)1月に孫岳の後任として署理陝西督弁に任命される。2月には国民軍第2軍第10師師長に任命された。同年9月、五原誓師を経て馮が国民革命軍に加入すると、李もこれに従った。
1927年(民国16年)6月、李雲竜は、国民革命軍西北軍(第2集団軍南路軍)第8路総司令に任命され、10月、国民革命軍東路副指揮となった。1928年(民国17年)、北伐に参加し、国民革命軍第2集団軍第16軍軍長兼国民政府軍事委員会委員に任命された。北伐後、新編第3師師長に任命される。その後、軍縮に伴い、1930年(民国19年)に第34師副師長に任命され、1931年(民国20年)、新編第3師師長に再び返り咲いた。しかし李は、中国共産党討伐に従事することを望まず、まもなく辞任・帰郷した。
以後、李雲竜は地元の名士として、学校建設や実業振興に取り組み、また、陝西省臨時参議会参議員もつとめた。1946年(民国35年)、陸軍中将銜を授与されている。中華人民共和国建国後も大陸に留まり、陝西省政治協商会議委員に任命された。
1954年、病没。享年65。
参考文献
- 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 田子渝・劉徳軍『中国近代軍閥史詞典』档案出版社、1989年。ISBN 7-5626-0244-1。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
|
---|