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2020年8月12日 (水) 09:33時点における版

寇英傑
プロフィール
出生: 1880年光緒6年)
死去: 不詳
出身地: 清の旗 山東省州府陽穀県または武定府利津県の人[1]
職業: 軍人
各種表記
繁体字 寇英傑
簡体字 寇英杰
拼音 Kòu Yīngjié
ラテン字 K'ou Ying-chie
和名表記: こう えいけつ
発音転記: コウ インジエ
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寇 英傑(こう えいけつ)は、中華民国の軍人。河南省の土着軍閥・豫軍(河南軍)の出身で、北京政府直隷派奉天派に属した。弼臣

事跡

幼年時代から軍歴を重ね、河南省で長く職務にあり、辛亥革命当時は河南新軍第29混成協で勤務していたと思われる。1914年民国3年)10月15日、少校にして第9師(長:張錫元)第33団団長に任ぜられた。しかし当時、河南省は辛亥革命時に出兵しそのまま土着した趙倜率いる毅軍(宏威軍)が鎮守使・師長職を独占しており、豫軍出身者は冷遇されていた。そのため、のちに湖北省王占元の元に渡り、蒲圻鎮守使、通城鎮守使を歴任[2]。1921年(民国10年)8月の湘鄂戦争後は河南から進軍した蕭耀南の配下となり、湖北陸軍第2混成旅旅長に就任する。1924年民国13年)秋の第2次奉直戦争後の同年12月には、湖北陸軍第1師師長に昇進した。1925年(民国14年)10月、呉佩孚により第2路軍司令に任命される。

河南支配への道

1926年(民国15年)1月20日、靳雲鶚の第1軍、劉鎮華の陝甘軍とともに国民軍第2軍の岳維峻の支配下にあった河南攻略に派遣され(鄂豫戦争)、1月26日、自身の隷下である賀国光、賈万興の2個旅のほか、蕭耀南の部下であった孫建業ら鄂軍3個旅からなる討豫鄂軍を率いて入省[3][4][5]。29日、まず南東部の信陽を攻める[6]。そこで蒋士傑率いる第11師に阻まれて苦戦したが、作戦を変更しようとはしなかった[6]。2月10日、呉佩孚は劉玉春中国語版の2個旅を監視役として充て、確山への北進を命じた[6][4]。その間にも、靳雲鶚は毅軍の米振標が帰順して無抵抗だったためやすやすと進軍し、2月26日に既に開封を制圧、更に岳維峻の国民軍第2軍主力がある鄭州に快進撃を続けていた[6]。3月1日、寇は省中央部の郾城許昌を制圧、また豫軍総司令を称する[7]。3月4日には鄭州で靳雲鶚と合流し、岳維峻を西へ追撃した。信陽はその後も抵抗を続けていたが、外国人宣教師や商会会長の仲裁で同月13日にようやく制圧できた[6]

靳と寇は互いに権力の座を巡って争ったため、調停に乗り出した呉佩孚は、3月17日、靳を省長兼聯軍副司令とする一方、寇を豫軍総司令兼河南督弁の職務を担わせた[7][5]。呉の指示で賀国光を警督察処に任じ、阿片の取り締まりに乗り出す一方、5月7日から中旬にかけ、杞県通許県睢県などで紅槍会や自衛団を鎮圧、これにより20以上の村が焼かれ、1000人以上の農民が殺害された[5]。16日、共産党員・蕭人鵠が紅槍会を率いて暴動を起こし、睢県城を攻撃する事件が起こる。寇は8区からなる保安大隊を組織して「清郷」強化に乗り出し、更に7月15日、軍を動員して一斉囲剿を行った[5]

6月、樊鍾秀登封で挙兵、宝豊県魯山県臨汝県郟県の5県を制圧し、独立を宣言して自治を開始した[5]。寇英傑は呉佩孚より鎮圧を命じられ、5県を包囲。しかし樊は部隊の一部を密かに南陽に向けており、12日に南召県城を制圧し、14日に南陽を、4県を制圧。24日、西部の方城県で6日間激戦を繰り広げる。続いて舞陽県葉県を確保し、7月2日、陝軍の陳家謨と連携して南陽に迫り、7日社旗県を奪還。19日、寇は鄭州の第10師の任応岐と第16師の徐寿椿に方城県と葉県で督戦を命じ、自身は京漢鉄路を確保した。8月2日、張治公中国語版、劉佐竜が襄城県、宝豊、郾城攻略を開始し2日後に占領。8月20日、樊は南陽を出て湖北省へ逃れ、国民政府に易幟した[5]

靳雲鶚との対決と奉天派への離反

同年秋になると、南からは中国国民党北伐、北からは張作霖の奉天派が迫り、呉佩孚の討賊聯軍は次第に追い詰められつつあった。9月6日、漢口が国民革命軍によって陥落させられると、呉も河南省に逃れてきた。靳と呉は馮玉祥張作霖のどちらと手を組むかで対立するようになり、更に靳が給料の遅滞をマスコミに告発すると25日、呉は靳の「再解任」を通達、後任に寇を立てることを告げた[8][9]。寇や田維勤の第20師に部隊の接収を命じたが、憤慨した靳は、隷下部隊に呉との決別を表明(呉靳内訌)。1927年(民国16年)元旦、靳の配下の第14師師長の高汝桐、第11師師長の龐炳勲、第17師師長の梁寿愷らは羅山に集まると、寇や田維勤に反撃を開始し、鉄道を封鎖、明港、駐馬店西平郾城を次々と制圧して追い詰めていった[9]。1月17日、呉は寇を河南督弁から解任し、翌18日、3個軍を擁する討赤聯軍第3軍団軍団長に命じた。19日、郾城にて高汝桐の第14師と交戦。その間にも、省西部には国民革命軍第5路軍が侵入、蒋介石や馮玉祥、武漢国民政府も靳を始め国民政府寄りの将官と接触を行っていた[9]。20日、呉は王維城、王為蔚らを集め靳の処遇について講じたところ、和議を求める声が多数だった。21日、両軍は停戦。疲弊した寇は25日に辞任を申し出ると、2月7日に河南省を出て奉天派に投降した[9][8]

その後、直魯聯軍を率いる張宗昌の下で第11方面軍軍長に任じられた[9]。しかしまもなく国民政府に投降し、国民革命軍第44軍軍長に任命された。

後に寇英傑は、汪兆銘南京国民政府で参謀本部上将参議に任命されている。しかし、具体的な活動は不詳で、没年等も不明である。

年譜

  • 1913年(民国2年)4月22日 - 陸軍歩兵少校[10]
  • 1914年(民国3年)10月15日 - 第9師(長:張錫元)第33団団長[11]
  • 1915年(民国4年)
    • 5月11日 - 陸軍歩兵中校[12]
    • 9月6日 - 陸軍歩兵上校[13]
  • 1917年(民国6年)
    • 5月11日 - 陸軍少将加銜[14]
    • 6月22日 - 暫編陸軍混成第二団団長[15]
  • 1918年(民国7年)7月10日 - 陸軍少将[16]
  • 1919年(民国8年)5月22日 - 陸軍第18師(長:王懋賞)歩兵第72団団長[17]
  • 1922年(民国11年)8月27日 - 陸軍中将[18]
  • 1923年(民国12年)1月26日 - 湖北陸軍第2混成旅旅長[19]
  • 1924年(民国13年)
    • 2月16日 - 將軍府將軍[20]
    • 7月15日 - 涵威將軍[21]
    • 12月 - 湖北陸軍第1師師長
  • 1925年(民国14年)10月 - 第2路軍司令
  • 1926年(民国15年)
    • 1月 - 討豫鄂軍総司令
    • 3月1日 - 豫軍総司令
    • 3月17日 - 豫軍総司令兼河南督弁
    • 12月25日 - 討賊聯軍副司令兼河南省長
  • 1927年(民国16年)
    • 1月18日 - 討赤聯軍第3軍団軍団長
    • 2月 - 第11方面軍軍長

脚注

  1. ^ 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』は陽穀県、徐友春主編『民国人物大辞典』は利津県とする。
  2. ^ 賀国光” (中国語). 岳阳市地方志. 2020年6月3日閲覧。
  3. ^ 张万明 (2011). 豫风楚韵——信阳. 河南科学技术出版社出版. p. 56. https://books.google.co.jp/books?id=8kboDwAAQBAJ&pg=PT56 
  4. ^ a b 中國第二歷史檔案館 編 (2012). 蔣介石年譜(1887~1926). 九州出版社. p. 384. https://books.google.co.jp/books?id=4oE_DwAAQBAJ&pg=PA384 
  5. ^ a b c d e f 1926年” (中国語). 河南省情网_河南省地方史志办公室. 2020年4月29日閲覧。
  6. ^ a b c d e 邓书杰,李 梅,吴晓莉,苏继红 (2005). 风暴来临(1920-1929). 中国历史大事详解3. 吉林音像出版社. p. 479. https://books.google.co.jp/books?id=sAhcAgAAQBAJ&pg=PT479 
  7. ^ a b 中國第二歷史檔案館 編 (2012). 蔣介石年譜(1887~1926). 九州出版社. p. 1125. https://books.google.co.jp/books?id=UrhCDwAAQBAJ&pg=PT1125 
  8. ^ a b 第一章军事斗争 第三节北洋军阀在河南的混战 三、吴靳内讧与靳云鶚抗奉” (中国語). 河南省情网_河南省地方史志办公室. 2020年4月29日閲覧。
  9. ^ a b c d e 1927年” (中国語). 河南省情网_河南省地方史志办公室. 2020年4月29日閲覧。
  10. ^ 政府広報第345号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
  11. ^ 政府広報第879号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
  12. ^ 政府広報第1081号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
  13. ^ 政府広報第1198号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
  14. ^ 政府広報第464号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
  15. ^ 政府広報第501号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
  16. ^ 政府広報第885号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
  17. ^ 政府広報第1185号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
  18. ^ 政府広報第1185号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
  19. ^ 政府広報第2472号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
  20. ^ 政府広報第2840号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
  21. ^ 政府広報第2987号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。

参考文献

  • 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2001年。ISBN 7-310-01517-7 
  • 田子渝・劉徳軍『中国近代軍閥史詞典』档案出版社、1989年。ISBN 7-5626-0244-1 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
岳維峻
(河南弁理軍務収束事宜)
豫軍総司令(河南督弁)
1926年3月 - 1927年1月
次代
靳雲鶚
(河南保衛軍総司令)