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[[清]]の[[挙人]]で、内務部で職に就く。[[徐世昌]]が[[東三省総督]]となるとその秘書となった。[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)、北京総統府秘書に任命される。[[1914年]](民国3年)7月から[[1916年]](民国5年)7月まで、[[綏遠省|綏遠]]道尹をつとめた。[[1917年]](民国6年)1月、内務部次長に昇進し、さらに外交委員会副会長となる。7月、国務院秘書長となり、さらに参戦事務処機要処長を兼ねた。[[1919年]](民国8年)、陸軍部次長となる。 |
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[[国民政府]]では、[[1933年]](民国22年)に華北戦区救済委員会委員をつとめたことがある。晩年は、花卉の絵画に打ち込み、優れた作品を残している。 |
2020年8月12日 (水) 09:31時点における最新版
張志潭 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: | 1883年(清光緒9年) |
死去: |
1946年(民国35年) 中華民国 |
出身地: | 清直隷省遵化州豊潤県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 張志潭 |
簡体字: | 张志潭 |
拼音: | Zhāng Zhìtán |
ラテン字: | Chang Chih-t'ang |
和名表記: | ちょう したん |
発音転記: | ジャン ジータン |
張 志潭(ちょう したん)は中華民国の政治家。北京政府の要人。字は遠伯。
事績
[編集]清の挙人で、内務部で職に就く。徐世昌が東三省総督となるとその秘書となった。1912年(民国元年)、北京総統府秘書に任命される。1914年(民国3年)7月から1916年(民国5年)7月まで、綏遠道尹をつとめた。1917年(民国6年)1月、内務部次長に昇進し、さらに外交委員会副会長となる。7月、国務院秘書長となり、さらに参戦事務処機要処長を兼ねた。1919年(民国8年)、陸軍部次長となる。
1920年(民国9年)8月、靳雲鵬で田文烈の後任として署理内務総長となる。その翌年5月には交通総長に任命され、顔恵慶臨時内閣・梁士詒内閣でもその任にあった。1921年(民国10年)12月、交通総長を辞任する。1923年(民国12年)、内国公債局総理に転じた。その翌年には財政整理委員会副会長を兼任している。1926年(民国15年)5月、顔慶恵内閣で交通総長に再任され、杜錫珪代理内閣・顧維鈞代理内閣でも在職した。翌年1月の辞任後に政界から引退した。
国民政府では、1933年(民国22年)に華北戦区救済委員会委員をつとめたことがある。晩年は、花卉の絵画に打ち込み、優れた作品を残している。
1946年(民国35年)、病没。享年64。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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