コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「龔心湛」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
40行目: 40行目:
! {{CHN1912}}([[北京政府]])
! {{CHN1912}}([[北京政府]])
{{先代次代|財政総長|<small>[[1919年]]1月 - 9月</small>|[[曹汝霖]]|[[李思浩]]}}
{{先代次代|財政総長|<small>[[1919年]]1月 - 9月</small>|[[曹汝霖]]|[[李思浩]]}}
{{先代次代|臨時[[国務総理]]|<small>[[1919年]]6月 - 9月</small>|[[銭能訓]]|[[キン雲鵬|&#x9773;雲鵬]]}}
{{先代次代|臨時[[国務総理]]|<small>[[1919年]]6月 - 9月</small>|[[銭能訓]]|[[雲鵬]]}}
{{先代次代|内務総長|<small>[[1924年]]11月 - [[1925年]]12月</small>|[[王永江]]|[[于右任]]}}
{{先代次代|内務総長|<small>[[1924年]]11月 - [[1925年]]12月</small>|[[王永江]]|[[于右任]]}}
{{先代次代|交通総長(署理)|<small>[[1925年]]11月 - [[1926年]]4月</small>|[[葉恭綽]]|[[呉毓麟]]}}
{{先代次代|交通総長(署理)|<small>[[1925年]]11月 - [[1926年]]4月</small>|[[葉恭綽]]|[[呉毓麟]]}}

2020年8月12日 (水) 09:30時点における版

龔心湛
プロフィール
出生: 1871年同治10年)
死去: 1943年民国32年)12月
中華民国天津特別市
出身地: 清の旗 安徽省廬州府合肥県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 龔心湛
簡体字 龚心湛
拼音 Gōng Xīnzhàn
ラテン字 Kung Hsin-chan
和名表記: きょう しんたん
発音転記: ゴン シンヂャン
テンプレートを表示

龔 心湛(きょう しんたん)は、清末中華民国政治家。清代末期に地方官僚をつとめ、民国時代には北京政府で主に財務官僚として高官となる。また、安徽派に属し、一時は臨時国務院総理となった。仙洲仙丹

事跡

監生(国子監の学生)で、卒業後にイギリスに留学した。日本、アメリカ、フランス、イタリア、フィリピンなどで公使館の随員となる。帰国後は、広東知府兼署理按察使に任命され、さらに欽廉兵備道も兼ねた。さらに、雲南臨安開広道、雲南提法使も歴任している。

1912年民国元年)以降、武昌造幣廠廠長、漢口中国銀行行長、賑撫局督弁、安徽省国税籌備処処長、財政司司長を歴任した。1914年(民国3年)、安徽省財政庁庁長となる。1915年(民国4年)6月、北京政府財政部次長に昇進し、さらに塩務署督弁も兼ねた。同年12月、督弁経界局事務に任命される。1916年(民国5年)4月、参政院参政となる。

1918年(民国7年)11月、安徽省省長に任命されたが、就任しなかった。1919年(民国8年)1月、北京政府財政部総長兼幣制局督弁兼造幣廠総裁に就任する。同年6月から3か月間、一時的に国務総理を代行した。

1924年(民国13年)11月、段祺瑞執政政府で内務部総長兼揚子江水道討論委員会会長兼賑務督弁となった。1925年(民国14年)11月、署交通部総長となり、12月、正式に交通部総長に任命された。1926年(民国15年)4月、辞任している。翌年6月、耀華玻璃公司総董に任命され、12月、督弁京都事宜を兼任した。

晩年は天津に居住し、銀行や保険会社で董事長(理事長)などをつとめた。なお1942年(民国31年)3月、南京国民政府華北政務委員会から諮議会議委員として招聘されている。

1943年(民国32年)12月、天津で死去。享年73。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
曹汝霖
財政総長
1919年1月 - 9月
次代
李思浩
先代
銭能訓
臨時国務総理
1919年6月 - 9月
次代
靳雲鵬
先代
王永江
内務総長
1924年11月 - 1925年12月
次代
于右任
先代
葉恭綽
交通総長(署理)
1925年11月 - 1926年4月
次代
呉毓麟