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李明の母の{{仮リンク|巢王妃楊氏|zh|巢王妃杨氏|label=楊氏}}は、もとは巣王[[李元吉]]の妃であり、太宗に寵愛されて、[[皇后]]の位にも望まれた。[[魏徴]]が諫言したので、太宗は楊氏立后を取りやめた。 |
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李明は、[[647年]]に曹王に封じられ、[[649年]]に実封800戸を受けた。まもなく1000戸を加えられた。[[顕慶]]年間、[[梁州]][[都督]]に任じられ、のちに[[虢州]]・[[蔡州]]・[[蘇州市|蘇州]]の[[刺史]]を歴任した。[[高宗 (唐)|高宗]]の命により李元吉の後を継いだ。[[680年]]、[[皇太子]][[李賢 (唐)|李賢]]の事件に連座して、零陵王に降格され、[[黔州]]に流された。[[682年]]、都督の謝祐が迫って李明を自殺させた。高宗は李明の死を悼んで、黔州の官吏を全員罷免した。[[710年]]に李明の柩が[[長安]]に運ばれ、[[昭陵 (唐)|昭陵]]に陪葬された。5子があった。 |
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== 子女 == |
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2020年8月12日 (水) 07:38時点における版
李明(り めい、? - 682年)は、中国の唐の太宗李世民の十四男。曹王に立てられた。
経歴
李明の母の楊氏は、もとは巣王李元吉の妃であり、太宗に寵愛されて、皇后の位にも望まれた。魏徴が諫言したので、太宗は楊氏立后を取りやめた。
李明は、647年に曹王に封じられ、649年に実封800戸を受けた。まもなく1000戸を加えられた。顕慶年間、梁州都督に任じられ、のちに虢州・蔡州・蘇州の刺史を歴任した。高宗の命により李元吉の後を継いだ。680年、皇太子李賢の事件に連座して、零陵王に降格され、黔州に流された。682年、都督の謝祐が迫って李明を自殺させた。高宗は李明の死を悼んで、黔州の官吏を全員罷免した。710年に李明の柩が長安に運ばれ、昭陵に陪葬された。5子があった。
子女
- 李俊(零陵王、南州別駕)
- 李傑(黎国公、垂拱年間に処刑された)
- 李價(済国公)
- 李備(衛尉少卿)
- 李偲(右武衛大将軍)