「劉弘 (隋)」の版間の差分
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[[580年]]([[大象 (北周)|大象]]2年)、[[尉遅迥]]の乱が起こると、尉遅迥の部将の席毗が[[徐州]]と[[兗州]]を攻撃した。劉弘は兵を率いて席毗をはばみ、功績により儀同・[[永昌郡]]太守・[[斉州]]長史に任じられた。[[588年]]([[開皇]]8年)、[[陳 (南朝)|南朝陳]]に対する征戦に従軍した。[[589年]](開皇9年)、行軍長史として総管[[吐万緒]]の下で[[長江]]を渡った。上儀同の位を加えられ、濩沢県公に封じられ、[[閩州|泉州]]刺史に任じられた。[[590年]](開皇10年)、[[高智慧]]の乱が起こると、泉州は100日あまりにわたって包囲を受けた。[[591年]](開皇11年)、救援の軍は来ず、城内の糧食も尽きて、樹皮を剥いで食いつないだ。反乱軍に降伏するのをよしとせず、敵の総攻撃を受けて泉州は陥落し、劉弘は戦死した。 |
2020年8月12日 (水) 00:00時点における最新版
劉 弘(りゅう こう、? - 591年)は、北斉から隋にかけての人物。字は子光。本貫は彭城郡彭城県叢亭里。
経歴
[編集]劉悦(劉廞の弟)の子として生まれた。北斉に仕えて行台郎中・襄城沛郡穀陽三郡太守・西楚州刺史をつとめた。北斉が滅ぶと、北周の武帝に仕えて彭城郡太守となった。
580年(大象2年)、尉遅迥の乱が起こると、尉遅迥の部将の席毗が徐州と兗州を攻撃した。劉弘は兵を率いて席毗をはばみ、功績により儀同・永昌郡太守・斉州長史に任じられた。588年(開皇8年)、南朝陳に対する征戦に従軍した。589年(開皇9年)、行軍長史として総管吐万緒の下で長江を渡った。上儀同の位を加えられ、濩沢県公に封じられ、泉州刺史に任じられた。590年(開皇10年)、高智慧の乱が起こると、泉州は100日あまりにわたって包囲を受けた。591年(開皇11年)、救援の軍は来ず、城内の糧食も尽きて、樹皮を剥いで食いつないだ。反乱軍に降伏するのをよしとせず、敵の総攻撃を受けて泉州は陥落し、劉弘は戦死した。
子に劉長信があり、その官爵を嗣いだ。