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「蓋延」の版間の差分

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建武5年([[29年]])3月、龐萌は董憲を撃つ詔書が蓋延独りに下り、自分に及ばなかったことを蓋延の誹る所と疑い、遂に反して楚郡太守を殺し、董憲についた。7月、光武帝自ら龐萌を討伐するに当たって、呉漢、蓋延らを召集し任城に会し、龐萌を桃郷に討った。昌虜を攻め、董憲を破った。
建武5年([[29年]])3月、龐萌は董憲を撃つ詔書が蓋延独りに下り、自分に及ばなかったことを蓋延の誹る所と疑い、遂に反して楚郡太守を殺し、董憲についた。7月、光武帝自ら龐萌を討伐するに当たって、呉漢、蓋延らを召集し任城に会し、龐萌を桃郷に討った。昌虜を攻め、董憲を破った。


建武6年([[30年]])春、光武帝に命じられ、[[祭遵]]、耿弇、[[王常 (後漢)|王常]]、馬武、[[劉キン (驍騎将軍)|劉歆]]([[劉植]]の従兄弟)、劉向と共に天水より[[公孫述]]を討たんとするも、叛乱した[[隗囂]]に敗れ、隴を降った。光武帝は、蓋延を長安に駐屯させた。
建武6年([[30年]])春、光武帝に命じられ、[[祭遵]]、耿弇、[[王常 (後漢)|王常]]、馬武、[[劉 (驍騎将軍)|劉歆]]([[劉植]]の従兄弟)、劉向と共に天水より[[公孫述]]を討たんとするも、叛乱した[[隗囂]]に敗れ、隴を降った。光武帝は、蓋延を長安に駐屯させた。


建武9年([[33年]])、隗囂が病死するや蓋延は西方の諸勢力を討ち、平らげた。
建武9年([[33年]])、隗囂が病死するや蓋延は西方の諸勢力を討ち、平らげた。

2020年8月12日 (水) 00:00時点における版

蓋 延(がい えん、? - 39年)は、後漢の武将。字は巨卿(きょけい)。漁陽郡要陽県(河北省豊寧満族自治県)の人(『後漢書』列伝8・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の11位に序せられる(『後漢書』列伝12)。

事跡

姓名 蓋延
時代 代 - 後漢時代
生没年 生年不詳 - 39年建武15年)
字・別号 巨卿(字)
本貫・出身地等 幽州漁陽郡要陽県
職官 漁陽郡署営尉、行護軍〔更始〕

→偏将軍〔劉秀〕
→虎牙(大)将軍
(後に兼左馮翊)〔後漢〕

爵位・号等 建功侯〔劉秀(後漢)〕→安平侯〔後漢〕
陣営・所属等 王莽更始帝光武帝
家族・一族 子:蓋扶

身長8尺(184センチ)、300斤(66キロ)の強弓を引いた。幽州北辺は烏桓との境であるため勇力を尊ぶ地方で、蓋延も侠気で知られていた。郡の属官、州の従事となった。彭寵が漁陽の太守となると、蓋延は営尉となり護軍都尉を兼ねた。王郎が挙兵するに及んで、呉漢と共に謀って、劉秀に帰順した。同郡の呉漢・王梁、更に上谷郡の将景丹寇恂耿弇と共に、王郎の軍を撃ち、広阿で劉秀の軍に合流した。偏将軍に任じられ、列侯に封じられ、従いて河北を平らげた。劉秀が皇帝に即位するや蓋延を虎牙将軍と為した。

建武2年(26年)4月、四将(馬武劉隆馬成王覇)を率いて、天子と号した劉永を囲んだ。元更始帝の将であった蘇茂は蓋延と仲が悪く、淮陽太守を斬って広楽に拠って劉永についた。6月、蓋延は睢陽を落とし、劉永は譙へ奔った。12月、蓋延は劉永を沛の西に破った。蘇茂・佼彊周建、軍を合わせて劉永を救援するも、蓋延に破られ、蘇茂は広楽に走り、佼彊、周建は劉永に従って、湖陵に砦した。

建武3年(27年)4月、光武帝は呉漢に七将を率いさせ、蘇茂を広楽に囲んだ。周建は蘇茂を救援するも、共に敗れ城を捨てて湖陵、劉永の元に戻った。睢陽は劉永を再び迎えた。呉漢は蓋延と軍を合わせ、これを囲んだ。7月、城中の食が尽きて、劉永・蘇茂・周建は逃れる。劉永の将慶吾は劉永を斬って降り、劉永の弟劉防は城を挙げて降った。蘇茂・周建は劉永の子、劉紆を立てて梁王とした。

建武4年(28年)春、蓋延は周建・蘇茂を攻め、董憲と留の下に戦ってこれらを破り、龐萌を率いて西防を攻め落とした。再度、周建・蘇茂を彭城に破り、周建・蘇茂は逃走した。7月、董憲の将賁休は蘭陵城を以って降るが、董憲はこれを囲んだ。蓋延は龐萌を率いて賁休を救わんとするも、光武帝の指示に従わず、返って董憲の計略に嵌って勝てず、蘭陵は董憲に落ち、賁休は斬られた。

建武5年(29年)3月、龐萌は董憲を撃つ詔書が蓋延独りに下り、自分に及ばなかったことを蓋延の誹る所と疑い、遂に反して楚郡太守を殺し、董憲についた。7月、光武帝自ら龐萌を討伐するに当たって、呉漢、蓋延らを召集し任城に会し、龐萌を桃郷に討った。昌虜を攻め、董憲を破った。

建武6年(30年)春、光武帝に命じられ、祭遵、耿弇、王常、馬武、劉歆劉植の従兄弟)、劉向と共に天水より公孫述を討たんとするも、叛乱した隗囂に敗れ、隴を降った。光武帝は、蓋延を長安に駐屯させた。

建武9年(33年)、隗囂が病死するや蓋延は西方の諸勢力を討ち、平らげた。

建武11年(35年)、中郎将来歙に率いられ馬成と共に公孫述の将を河池、下弁に攻めるも、来歙が刺客に倒れて勝たず、蓋延は病気故に引き返した。将軍職のまま左馮翊の長となった。

建武15年(39年)、その職位のまま亡くなった。

人柄・逸話

  • 敵を侮り深入りして、光武帝に何度も諌められている。
  • 来歙が刺客にやられた際に蓋延を呼び出すが、蓋延は来歙を見て号泣し、来歙に「後を託さんと呼ぶが、返って女子供に倣って泣くか。刃は身に在るといえども、兵を整えて公を斬ることが出来ない訳では無いぞ」と叱咤され、涙を収めて傾聴した。
  • 左馮翊の長の時、非法が多く、配下であった第五倫がしばしば諌めているが、蓋延は逆恨みして、第五倫を推挙することは無かった。