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当時、王郎麾下の真定王・[[劉楊]](または劉揚に作る)は兵10余万を擁していた。劉秀は劉楊を味方に付けるため、劉植を使者として説かせた。これにより劉楊の引き込み・[[郭聖通]](のちの郭皇后。劉楊の妹の夫・郭昌の娘)との縁組みが成立した。この事は劉秀が王郎の本拠・[[邯鄲市|邯鄲]]を破り河北を平定するに役立った。 |
2020年8月12日 (水) 00:00時点における版
劉 植(りゅう しょく、? - 建武2年(26年))は、後漢の武将。字は伯先(はくせん)。鉅鹿郡昌城県(河北省深州市)の人(『後漢書』列伝11・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第28位に序せられる(『後漢書』列伝12)。
略歴
姓名 | 劉植 |
---|---|
時代 | 新代 - 後漢時代 |
生没年 | 生年不詳 - 26年(建武2年) |
字・別号 | 伯先(字) |
本貫・出身地等 | 冀州鉅鹿郡昌城県 |
職官 | 驍騎将軍〔劉秀(後漢)〕 |
爵位・号等 | 列侯〔劉秀(後漢)〕
→昌城侯〔後漢〕 |
陣営・所属等 | 光武帝(劉秀) |
家族・一族 | 弟:劉喜 従兄:劉歆
子:劉向 |
王郎挙兵の時、弟劉喜・従兄劉歆と共に宗族・賓客を率い、兵数千人を集めて昌城に拠った。更始2年(24年)、薊県から逃れてきた劉秀を迎え、驍騎将軍を拝命した。
当時、王郎麾下の真定王・劉楊(または劉揚に作る)は兵10余万を擁していた。劉秀は劉楊を味方に付けるため、劉植を使者として説かせた。これにより劉楊の引き込み・郭聖通(のちの郭皇后。劉楊の妹の夫・郭昌の娘)との縁組みが成立した。この事は劉秀が王郎の本拠・邯鄲を破り河北を平定するに役立った。
建武2年(26年)、昌城侯に封ぜられた。同年、河南密県で賊の掃討にあたり戦死した。劉植の兵と号の驍騎将軍は弟の劉喜が引継ぎ、劉喜が亡くなると、従兄の劉歆が更に引き継いだ。