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「慕容暐」の版間の差分

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8月、東晋の西中郎将[[袁真]]は汝南へ進み、米五万斛を洛陽へ送った。庾希は下邳より後退して山陽を鎮守した。
8月、東晋の西中郎将[[袁真]]は汝南へ進み、米五万斛を洛陽へ送った。庾希は下邳より後退して山陽を鎮守した。


11月、[[代 (五胡十六国)|代]]王[[拓跋什翼ケン|拓跋什翼犍]]は国の女を前燕へ送り、慕容暐の妾とするよう勧めた。慕容暐はこれを認め、後宮に入れた。
11月、[[代 (五胡十六国)|代]]王[[拓跋什翼犍]]は国の女を前燕へ送り、慕容暐の妾とするよう勧めた。慕容暐はこれを認め、後宮に入れた。


==== 許昌・汝南・陳郡攻略 ====
==== 許昌・汝南・陳郡攻略 ====
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前秦の黄門郎[[石越 (前秦)|石越]]が使者として到来すると、慕容評は前燕の富盛を誇示する為、盛大にもてなした。尚書郎高泰・太傅参軍劉靖は慕容評へ、豪奢な様を見せつけては益々侮られるだけであり、軍事訓練を派手に見せて敵の意気を喪失させるべきだと訴えたが、慕容評は従わなかった。高泰はこれに失望し、病気と称して職を辞した。
前秦の黄門郎[[石越 (前秦)|石越]]が使者として到来すると、慕容評は前燕の富盛を誇示する為、盛大にもてなした。尚書郎高泰・太傅参軍劉靖は慕容評へ、豪奢な様を見せつけては益々侮られるだけであり、軍事訓練を派手に見せて敵の意気を喪失させるべきだと訴えたが、慕容評は従わなかった。高泰はこれに失望し、病気と称して職を辞した。


当時、連年にわたり兵難が続き、国力は大いに疲弊した。また、皇太后可足渾氏は国政を乱し、慕容評は財貨を貪って飽くことが無かった。そのため、朝廷でも賄賂は横行し、官吏の推挙も才能ではなく賄賂によって決まったので、下々には怨嗟の声が溜まった。尚書左丞[[申紹]]はこの状況を憂えて「守宰(郡太守や県令などの地方長官)というのは、国家を安定させる大本であります。今、守宰は正しい人を得られておらず、時には一兵卒からのし上がった武人であったり、時には貴族の子弟であったりと、郷里での選挙で選ばれた訳ではありません。朝廷の職でもそれは変わらず、法によらず官位を変動させ、怠惰な者でも刑罰を恐れず、清修な者への褒賞がありません。これにより百姓は困弊して盗賊が横行し、綱紀は衰退してしまって互いに乱れを直し合おうという風潮も無くなりました。また、官吏の数もみだりに増え、それが先代を越えてしまっております。これにより公私問わず紛然としており、甚だ乱れきっております。我が大燕の人口は、二寇(前秦・東晋)を合わせる程に多く、弓馬の力強さは四方に及ぶものがおりません。にも関わらず、近年は幾度も敗戦を喫しております。これは全て守宰の租税が公平でなく、侵漁する事を止めないので、兵卒達はみな辛苦して行軍を止め、その命に従おうとしないことに由来しております。また、後宮には四千人余りがおりますが、これに仕える者がさらに外にはおり、一日に万金を費やす事になっております。さらには、士民もこれを真似て奢靡(豪華な振る舞い)を競い合っております。あの秦(前秦)や呉(東晋)は愚かにも僭称しておりますが、それでも筋道に則って統治を行っております。奴らは天下併呑の志を持っておりますのに、我らは上下ともに一向に改めようとせず、その秩序は日毎に失われております。我らの乱れこそ奴らの望みなのです。どうか守宰の人選をより精細に行い、官吏の数を減らして下さい。兵家を労い、公私ともに浪費を節減し、物品を大切にし、功績があった者は必ず賞し、罪を犯した者は必ず罰してくださいますよう。これでこそ、温(桓温)・猛(王猛)を晒し首にする事が出来、二方を取る事が出来るのです。境を保って民を安んじるだけに留まりましょうか!また、索頭什翼犍(代王の[[拓跋什翼ケン|拓跋什翼犍]])は疲病により乱れており、貢物が乏しいといえども、煩いを為すことも無いでしょう。また、兵を労して遠くこれを征伐しても、損があるだけで益はありません。并州へ軍を動かすよりも、西河を控制し、南は壺関を固め、北は晋陽を重くし、西寇が来たらばこれを拒守してその後ろを断つのです。これは軍隊を無用な地の孤立した城を守らせるよりよい計画かと」と上疏し、守宰の人選見直しと官吏の削減、また経費の節減と官吏への正しい賞罰を行う様訴えたが、聞き入れられる事はなかった。
当時、連年にわたり兵難が続き、国力は大いに疲弊した。また、皇太后可足渾氏は国政を乱し、慕容評は財貨を貪って飽くことが無かった。そのため、朝廷でも賄賂は横行し、官吏の推挙も才能ではなく賄賂によって決まったので、下々には怨嗟の声が溜まった。尚書左丞[[申紹]]はこの状況を憂えて「守宰(郡太守や県令などの地方長官)というのは、国家を安定させる大本であります。今、守宰は正しい人を得られておらず、時には一兵卒からのし上がった武人であったり、時には貴族の子弟であったりと、郷里での選挙で選ばれた訳ではありません。朝廷の職でもそれは変わらず、法によらず官位を変動させ、怠惰な者でも刑罰を恐れず、清修な者への褒賞がありません。これにより百姓は困弊して盗賊が横行し、綱紀は衰退してしまって互いに乱れを直し合おうという風潮も無くなりました。また、官吏の数もみだりに増え、それが先代を越えてしまっております。これにより公私問わず紛然としており、甚だ乱れきっております。我が大燕の人口は、二寇(前秦・東晋)を合わせる程に多く、弓馬の力強さは四方に及ぶものがおりません。にも関わらず、近年は幾度も敗戦を喫しております。これは全て守宰の租税が公平でなく、侵漁する事を止めないので、兵卒達はみな辛苦して行軍を止め、その命に従おうとしないことに由来しております。また、後宮には四千人余りがおりますが、これに仕える者がさらに外にはおり、一日に万金を費やす事になっております。さらには、士民もこれを真似て奢靡(豪華な振る舞い)を競い合っております。あの秦(前秦)や呉(東晋)は愚かにも僭称しておりますが、それでも筋道に則って統治を行っております。奴らは天下併呑の志を持っておりますのに、我らは上下ともに一向に改めようとせず、その秩序は日毎に失われております。我らの乱れこそ奴らの望みなのです。どうか守宰の人選をより精細に行い、官吏の数を減らして下さい。兵家を労い、公私ともに浪費を節減し、物品を大切にし、功績があった者は必ず賞し、罪を犯した者は必ず罰してくださいますよう。これでこそ、温(桓温)・猛(王猛)を晒し首にする事が出来、二方を取る事が出来るのです。境を保って民を安んじるだけに留まりましょうか!また、索頭什翼犍(代王の[[拓跋什翼犍]])は疲病により乱れており、貢物が乏しいといえども、煩いを為すことも無いでしょう。また、兵を労して遠くこれを征伐しても、損があるだけで益はありません。并州へ軍を動かすよりも、西河を控制し、南は壺関を固め、北は晋陽を重くし、西寇が来たらばこれを拒守してその後ろを断つのです。これは軍隊を無用な地の孤立した城を守らせるよりよい計画かと」と上疏し、守宰の人選見直しと官吏の削減、また経費の節減と官吏への正しい賞罰を行う様訴えたが、聞き入れられる事はなかった。


==== 洛陽失陥 ====
==== 洛陽失陥 ====

2020年8月11日 (火) 10:19時点における版

幽帝 慕容暐
前燕
第3代君主
王朝 前燕
在位期間 360年 - 370年
都城
姓・諱 慕容暐
景茂
諡号 幽皇帝
廟号
生年 350年
没年 384年
慕容儁(第3子)
景昭皇后可足渾氏
后妃 可足渾氏中国語版
年号 建熙 : 360年 - 370年

慕容 暐(ぼよう い、拼音:Mùróng Wĕi)は、五胡十六国時代前燕の第3代にして最後の君主。は景茂。慕容儁の三男であり、生母は可足渾氏。異母兄に慕容臧、同母兄に慕容曄が、弟に慕容亮慕容温慕容渉慕容泓慕容沖が、妹に清河公主がいる。

生涯

父の時代

350年、慕容儁の三男として生まれた。

354年4月[1]、中山王に封じられた。

357年2月、前年に兄の皇太子慕容曄が早世したことに伴い、新たな皇太子に立てられた。

360年1月、慕容儁が崩御した。慕容暐はまだ幼かったので、群臣は慕容儁の弟である太原王慕容恪に後を継ぐよう勧めたが、慕容恪はこれを固く辞退したので、予定通り慕容暐が継ぐこととなった。

慕容恪の輔政

皇帝即位

慕容儁崩御から数日後、慕容暐は帝位に即いて境内に大赦を下し、建熙と改元した。

2月、実母の可足渾氏を皇太后に立てた。また、慕容恪を太宰録尚書事に任じ、周公旦の故事に倣って朝政を主管させ、百官の筆頭とした。さらに上庸王慕容評太傅に、陽騖太保に、慕輿根太師に任じ、その他の文官・武官についても能力に応じて爵位を授けた。これ以降、国事については慕容恪に委ねられる事となり、慕容評・陽騖・慕輿根がその補佐に当たった。可足渾氏もまた政治に参画したという。

慕輿根の造反

慕輿根は慕容恪が国政を担っている事に不満を抱いており、密かに政権の掌握を目論んでいた。彼はまず国政を乱そうと考え、慕容恪の下へ出向くと、慕容暐と可足渾氏を排斥して自ら帝位に即くよう勧めたが、慕容恪は応じなかった。その為、今度は慕容恪と慕容評の誅殺を考え、武衛将軍慕輿干と共に密かに謀略を練った。そして慕容暐と可足渾氏の下へ出向くと、慕容暐らへ「太宰(慕容恪)と太傅(慕容評)が謀反を企てております。臣が禁兵(近衛兵)を率いて彼らを誅殺し、社稷を安んじることをお許しください」と偽りの進言を行った。可足渾氏はこれを信用して許可しようとしたが、慕容暐が「二公は国家の親賢(親族の賢臣)です。先帝により選ばれ、孤児と寡婦(慕容暐と可足渾氏)の補佐をしてくれているのです。必ずやそのような事はしません。それに、太師こそが造反を考えているのでないとも限らないでしょう!」と反対したため、取りやめとなった。また、慕輿根は郷里である東土(中国の東側。前燕がかつて本拠地としていた遼西地方を指す)を懐かしみ、可足渾氏と慕容暐へ向けて「今、天下は混迷し、外敵も一つではありません。この国難を大いに憂えているところであり、東の地へ戻られるべきかと存じます」と訴え、還都を強行しようとしたが、慕容暐がこれを中止させた。ここにおいて次第に慕輿根の反心が明らかとなると、慕容恪は遂に誅殺を決め、慕容評と謀って密かにその罪状を奏上すると共に、秘書監皇甫真・右衛将軍傅顔を派遣して慕輿根を捕らえさせ、宮殿内で誅殺した。彼の妻子や側近も同じく罪に伏して処刑され、慕輿根ともども首は東市に晒された。その後、領内に大赦を下した。

3月、慕容儁を龍陵に埋葬した。景昭皇帝とし、廟号は烈祖とした。

また、慕容恪は慕容垂を使持節・征南将軍・都督河南諸軍事・河南大都督・南蛮校尉・兗州荊州刺史に任じ、梁郡睢陽県の蠡台を鎮守させた。さらに、孫希を安西将軍・并州刺史に、傅顔を護軍将軍に任じ、他の者もそれぞれ官爵を授けた。

当時、前燕で災難が続いていた事を理由に徴兵が行われたが、これに徴兵を受けた領内の民は大いに動揺し、命令を拒んで勝手に郷里に戻ろうとした。その為、以南では道路が大いに混雑し、断絶してしまった。慕容恪は傅顔に騎兵2万を与えて河南の地で観兵を行い、淮河まで到達したところで帰還させた。これにより、領内の動揺は静まると共に、その軍威は大いに盛んとなった。

4月、単男雁門郡太守に任じた。

361年1月[2]平陽の民は郡を挙げて前燕へ降伏した。慕容暐は建威将軍段剛太守に任じ、督護韓苞と共に平陽を守らせた。

2月、方士の丁進は慕容暐から重用を受けていたが、彼は慕容恪へ媚びを売ろうと思い、慕容評を殺して政権を独占するよう説いた。だが、慕容恪はこれに激怒して丁進を誅殺するよう上奏し、丁進を捕らえて処断した。

野王攻略

野王に割拠している寧南将軍・河内郡太守呂護は名目上前燕の臣下であったが、密かに東晋へも帰順しており、前将軍冀州刺史に任じられていた。361年2月[3]、彼は東晋軍を招き入れ、鄴を強襲せんと目論んだ。3月、呂護の計画が露見すると、慕容恪は5万の兵を率いて呂護討伐に向かった。冠軍将軍皇甫真もまた1万の兵を率いて従軍し、護軍将軍傅顔もまたこれに付き従った。前燕軍が野王に到着すると、呂護は籠城の構えを取ったので、慕容恪らは城を包囲して長期戦の構えを取った。

4月、東晋の都督司冀二州諸軍事桓温は弟の都督沔中七郡諸軍事桓豁許昌へ侵攻させた。前燕の鎮南将軍慕容塵はこれを迎え撃つも、返り討ちに遭った。

8月[4]、数か月に渡る包囲により追い詰められた呂護は、配下の張興に精鋭7千を与えて突撃させたが、傅顔はこれを撃退して張興を討ち取った。食糧が尽きた呂護は皇甫真の陣営へ夜襲を仕掛けたが、皇甫真はこれを予期して警戒を強化していたので、突破を許さなかった。慕容恪はこの隙に攻撃を仕掛けると、呂護の将兵は大半が死傷し、呂護は妻子を棄てて滎陽へ逃走した。これにより野王は陥落し、慕容恪は野王の民を厚く慰撫して食糧を支給した。また、呂護の将兵については鄴へ移らせたが、その他の者については望み通りにさせた。さらに、呂護の参軍であった梁琛を中書著作郎に抜擢した。

361年9月、并州に割拠する張平が前燕に背いて平陽を攻撃し、前燕の将軍段剛韓苞が討ち取られた。さらに雁門も攻撃を受け、雁門郡太守単男は討死した。だがその後、張平は前秦から攻撃を受け、考えを改めて前燕に謝罪して救援を請うたが、慕容恪は張平が離反を繰り返していたので救援を送らなかった。これにより、遂に張平は前秦軍は敗れて殺された。

10月、滎陽にいる呂護は再び前燕に謝罪して帰順を請うた。慕容暐はこれを認め、広州刺史・寧南将軍に任じて以前通りに遇した。

12月、領内に大赦を下した。

洛陽へ侵攻

362年1月、豫州刺史孫興は上表して「晋将陳祐は弱兵1000余りで孤立した城(洛陽)を守っております。取らない手はありません!」と訴え、東晋の勢力下にあった洛陽を攻めるよう勧めた。慕容暐はこれを聞き入れ、護軍将軍傅顔[5]・寧南将軍呂護に兵を与えて河陰へ侵攻させた。

同月[6]、傅顔は北の勅勒を襲撃し、大戦果を挙げてから帰還した。

2月、呂護は小規模な砦を攻め落としながら単独で侵攻を続け、洛陽へ迫った。3月、東晋の輔国将軍・河南郡太守戴施は大いに恐れてへ逃走し、冠軍将軍陳祐は東晋朝廷へ救援を要請した。5月、東晋の大司馬桓温は北中郎将庾希竟陵郡太守鄧遐に3千の水軍を与えて洛陽救援に向かわせた。

6月[7]信都を守る征東将軍・冀州刺史・范陽王慕容友が配下の征東参軍劉抜に刺殺された。

7月[8]、救援軍の到来により呂護は小平津まで軍を退いたが、流れ矢に当たって戦死した。[9]将軍段崇は残兵を纏めて北へ撤退し、野王に戻った。鄧遐は新城まで進出した。前燕の将軍劉則は檀丘において庾希配下の何謙を破り、その軍を撤退させた。

8月、東晋の西中郎将袁真は汝南へ進み、米五万斛を洛陽へ送った。庾希は下邳より後退して山陽を鎮守した。

11月、拓跋什翼犍は国の女を前燕へ送り、慕容暐の妾とするよう勧めた。慕容暐はこれを認め、後宮に入れた。

許昌・汝南・陳郡攻略

363年4月、慕容暐は寧東将軍慕容忠滎陽攻略を命じた。慕容忠が迫ると、東晋の滎陽郡太守劉遠は魯陽へ逃走した。5月、慕容忠はさらに進軍して密城を攻め落とすと、劉遠はさらに江陵まで逃れた。10月、鎮南将軍慕容塵に東晋の陳留郡太守袁披の守る長平攻略を命じたが、汝南郡太守朱斌がその隙に乗じて許昌を襲い、これを攻め落とした。

364年1月、慕容暐は南郊において祭祀を行い、領内に大赦を下した。

2月、慕容暐は太傅慕容評と龍驤将軍李洪を河南へ侵攻させた。前燕軍は東晋軍を破って潁川郡太守李福を戦死させ、汝南へ到達すると汝南郡太守朱斌は寿春へ逃走した[10]。さらに陳郡へ進んで城を包囲すると、陳郡太守朱輔は籠城して抵抗した。大司馬桓温は江夏相劉岵を派遣して救援させると、慕容評らは軍を撤退させた。

4月、慕容暐は再び李洪を派遣して許昌へ侵攻させ、懸瓠において東晋軍を破った。朱斌は淮南まで撤退し、朱輔もまた彭城まで退却した。桓温は西中郎将袁真を派遣して李洪を防がせ、自らは水軍を率いて合肥まで進出した。李洪は遂に許昌・汝南・陳郡を攻略し、1万戸余りを幽州・冀州に移らせた。慕容暐は鎮南将軍慕容塵に許昌を防衛させた。

洛陽制圧

8月[11]、慕容暐は旧都龍城に残されていた宗廟社稷と、留め置かれている百官を鄴に移らせたいと考え、群臣に議論させた。これが実行に移されると、太尉封奕侍中慕輿龍を龍城へ詣でさせた。

同月、太宰慕容恪は本格的に洛陽攻略を目論み、まず使者を派遣して周囲の士民を招納させると、遠近の砦は次々と前燕に帰順した。また、太宰司馬悦希を盟津に進軍させ、さらに豫州刺史孫興を成皋に軍を分けて配して悦希の援護をさせた。東晋の冠軍長史沈勁沈充の子)は勇士1000人余りを引き連れて洛陽の守将である陳祐の加勢に馳せ参じ、前燕軍をしばしば破った。

9月、洛陽の兵糧が尽きて援護も断たれると、陳祐は500人だけを沈勁に預けて洛陽を守らせ、自らは逃走してしまった。また、悦希は兵を率いて河南へ侵攻し、諸々の砦を尽く降伏させた。

10月、封奕らは龍城に到着すると、宗廟社稷を迎え入れてから鄴へ帰還した。彼らが鄴に到着すると、慕容暐は自ら群臣を束ねて道の傍らで拝謁した。

365年2月、太宰慕容恪は呉王慕容垂と共に洛陽を攻撃した。3月、慕容恪は洛陽の金墉城(洛陽城の東北にあり、防衛上の拠点となる城)を陥落させ、寧朔将軍竺瑶を襄陽へ逃走させ、冠軍長史沈勁を捕らえて処刑した。慕容恪は余勢を駆って西進して崤澠まで進出すると、前秦は大いに震え上がり、前秦君主苻堅は自ら陝城へ出向いて侵攻に備えた。

慕容恪は左中郎将慕容筑を仮節・征虜将軍・洛州刺史に任じて金墉を守らせ、慕容垂を都督荊揚洛徐兗豫雍益涼秦十州諸軍事・征南大将軍・荊州牧に任じ、兵1万を与えて魯陽を鎮守させると、自らは軍を返して鄴へ帰還した。

慕容恪の死

4月、前燕を黎明期より支えた功臣である太尉・武平公の封奕が死去した。これにより、司空陽騖を後任の太尉とし、並びに侍中・光禄大夫に任じた。また。皇甫真を陽騖に代わって司空・領中書監に任じた。

366年9月、鐘律郎郭欽は上奏し、五行について前燕は後趙の水徳を承けて木徳とするよう議すと、慕容暐はこれに従った。

10月、撫軍将軍慕容厲を兗州へ侵攻させ、東晋の泰山郡太守諸葛攸を攻撃させた。慕容厲は諸葛攸を淮南へ退却させ、兗州の魯郡や高平郡などの諸郡を陥落させると、守宰を置いてから帰還した。

12月、東晋の南陽督護趙億[12]が宛の地で反乱を起こし、郡を挙げて前燕へ帰順し、太守桓澹新野へ逃走した。これを受けて慕容暐は、南中郎将趙盤[13]を魯陽から宛に移らせ、守備を命じた。

367年2月、慕容厲は鎮北将軍慕容桓と共に漠南へ侵攻し、勅勒を撃った。

4月、鎮南将軍慕容塵は竟陵へ侵攻したが、東晋の竟陵郡太守羅崇[14]に撃ち破られた。

同月、慕容恪は病を患うようになると、慕容暐へ「呉王垂(慕容垂)の将相(将軍と宰相)の才覚は臣に十倍します。先帝(慕容儁)は幼長の序列を重視して臣を先に取り立てたに過ぎません。臣が死んだ後は、どうか国を挙げて呉王を尊重なさって下さい」と進言した。

5月、慕容恪の病がいよいよ重篤となると、慕容暐は自ら見舞いに出向いて後事を問うた。すると慕容恪は「臣が聞くところによりますと、恩に報いるには賢人を薦めるのが最上であると言います。賢者であれば、例え板築(下賤)であっても宰相とするには足りましょう。ましてや近親の者ならなおさらです!呉王は文武に才能を兼ね備え、管(管仲)・蕭(蕭何)にも匹敵します。もしも陛下が彼に大政(国家の政治)を任せれば、国家は安泰です。そうでなければ、必ずや秦か晋に隙を窺われましょう」 と語り、再び慕容垂を重用するように言い残した。その後、間もなく没した。

これ以降、慕容評と可足渾皇太后が国政を担うようになった。

慕容評の輔政

好機を逸する

慕容恪の死後、苻堅は前燕併呑を画策し、西戎主簿郭弁を使者として前燕に向かわせて隙を窺わせた。郭弁は鄴に至ると、公卿の家を逐一訪問して内情の収集して回った。不審に思った皇甫真は慕容暐に郭弁を詳しく取り調べる様要請したが、慕容評がこれを許さなかった。

6月、東晋の右将軍桓豁・竟陵郡太守羅崇は共に宛城に侵攻し、これを陥落させた。趙億は逃亡し、趙盤は魯陽へと退却した。桓豁は軽騎兵で趙盤を追撃させ、雉城で趙盤軍と再び大規模な合戦を行い、これを大破した。趙盤は捕縛され、桓豁は宛城に守備を配置してから帰還した。

7月、慕容厲らは勅勒を撃ち破り、牛馬数万頭を鹵獲した。だが、慕容厲は勅勒を討つために代国の国境を通った際に祭田を荒らしてしまっており、これに代王拓跋什翼犍は大いに怒り、兵を率いて討伐に向かった。慕容暐は平北将軍慕輿泥を派遣し、幽州兵を与えて雲中を防衛させた。8月、代軍が雲中へ侵攻すると、慕輿泥は城を捨てて逃走し、振威将軍慕輿賀辛は戦死した。

12月、太尉・建寧公の陽騖が亡くなると、司空皇甫真を後任の太尉とし、並びに侍中・光禄大夫に任じた。また、李洪を皇甫真に代わって司空に任じた。

368年2月、車騎将軍・中山王慕容沖を大司馬に任じ、荊州刺史・呉王慕容垂を侍中・車騎大将軍・儀同三司に任じた。

前年より、前秦においては晋公苻柳蒲坂で、趙公苻双上邽で、魏公苻廋陝城で、燕公苻武安定で各々反乱を起こしており、苻廋は陝城を挙げての帰順を条件に前燕へ援軍を要請した。当時『燕馬はまさに渭水を飲まん(前秦の勢力圏は渭水流域に位置する)』という予言があったので、前秦君主苻堅は前燕が乱に乗じて関中へ襲来するのを大いに警戒し、華陰に精兵を配して守りを固めた。

これを受け、前燕の群臣の多くは兵を派遣して陝城を救援し、これを皮切りに関中を征伐するよう慕容暐へ勧めた。だが、太傅慕容評には素より経略など無く、また前秦より賄賂を受け取っていたので、その議論に反対して「秦は大国である。今、国難に襲われたとはいえ、その底力は侮れん。それに引き替え我が国は、朝廷こそ一つにまとまっているが、先帝が崩御したばかり。我等の知略も又、太宰(慕容恪)程ではない。今は、関を閉じて国境を固守するのが一番。平秦など、今の我等には荷が重すぎる」と述べ、応じなかった。

前燕の魏尹・范陽王慕容徳は前秦を討つ絶好の機会であるとして、慕容暐へ「先帝は天命に従い、天下を統一しようと志し、陛下はその後を継いでこれを成就なさっております。今、苻氏では骨肉の争いが起こり、国が五つ(蒲坂・陝城・上邽・安定・長安)に別れました。そして、我が国へ降伏する者も相継いでおります。これは秦を燕へ贈ろうという天の御心でございます。『天の与えたるを取らざれば、却ってその殃を受く』と申しますが、これは(春秋時代の)の興亡を見れば明白でございます。願わくば、皇甫真に并州・冀州の兵を与えて蒲坂を攻撃させ、慕容垂に許・洛の兵を与えて陝城の包囲を解かせ、太傅(慕容評)には京師の兵を与えて出撃させてくださいますよう。その上で、三輔へ檄文を飛ばして禍福を説き、賞罰を明確にすれば、敵は風に靡くように我が軍のもとへ馳せ参じましょう。 今こそ、天下平定の絶好の機会なのです!」[15]と上疏した。慕容暐はこの書を読んで大いに喜び、これに従おうとしたが、慕容評の猛反対に遭った為に果たす事が出来なかった。結局、反乱は王猛鄧羌張蚝楊安王鑒によって同年のうちに鎮圧された。

蔭戸を摘発

9月[16]、太傅慕容評の執政以降、王侯貴族らが密かに多くの戸籍を隠し持つようになっており、国家が所有する戸籍は減少していた。その為、倉庫は空となり、資材の供給も不足するようになていた。尚書左僕射悦綰はこの状況を憂え、慕容暐へ「太傅の政治は寛大でありますが、故に人々の多くが隠れて事をなしております。『春秋左氏伝』によりますと『唯有徳者能以寛服民、其次莫如猛(徳にある者だけが寛大さをもって民を統治できる。その次に良いのが力強くする事だ』といいます。現在、三方(前燕・前秦・東晋)が鼎立して互いに併呑の心を有しておりますが、にもかかわらず今、国家の政法は正しく立っておらず、諸軍の営戸(支配階級が私的に抑えている民家)は三つに分かれて存在しており、風教は衰退し、規律は乱れております。豪族・貴族が欲しいままに民家を尽く食いつぶし、委輸(国家への献上物)は全く入っておりません。官吏への俸給や士卒への食糧供給も満足に出来ておらず、逆に官員から恵んでもらっているような有様です。このような事が隣国に知られる事はあってはなりません。どうか、諸々の蔭戸(私的に隠し持っている戸籍)を廃して郡県に返還し、国庫を充足させるべきです。法令を粛々と明らかにし、どうか四海を清らかにしていただきますよう」と進言した。慕容暐はこれに同意すると、悦綰に命じてこれらの摘発に専従させた。悦綰は事実を究明して厳格に摘発したので、王公は隠し通すことが出来ず、公民は20万戸余りも増員する事が出来た。だが、私腹を肥やしていた官民たちはこの措置に大いに憤り、慕容評もこれを大いに不満とした。

11月、悦綰はこの世を去った。病死したとも、慕容評の派遣した賊によって暗殺されたとも言われる。

桓温の北伐

369年4月、貴妃の可足渾氏を皇后に立てた。

同月、東晋の大司馬桓温が徐兗二州刺史郗愔、江州刺史・南中郎桓沖、豫州刺史・西中郎袁真、江夏相劉岵らを従え、歩兵騎兵合わせて5万を率いて前燕へ侵攻した。

6月、桓温は金郷から鉅野を経由し、清水から黄河に入った。また、建威将軍檀玄湖陸を攻撃させ、これを陥落させて寧東将軍慕容忠を捕らえた。慕容暐は撫軍将軍・下邳王慕容厲を征討大都督に任じて歩兵・騎兵2万[17]の兵を与えて迎撃させたが、慕容厲は黄墟で大敗を喫し、かろうじて単騎で帰還した。これにより、前燕の高平郡太守徐翻は郡ごと降伏した。さらに、桓温は前鋒の鄧遐と朱序を林渚に派遣し、前燕の護軍将軍傅顔を破った。これにより東晋軍の戦意を大いに奮った。慕容暐はさらに楽安王慕容臧に諸軍を統率させて迎撃を命じたが、慕容臧もまた桓温の勢いを阻むことが出来ず、彼は散騎常侍李鳳を前秦へ派遣して救援を要請した。

7月、桓温は武陽に駐屯すると、前燕のかつて兗州刺史であった孫元が一族郎党を率いて桓温に呼応した。桓温はさらに枋頭まで進むと、慕容暐は大いに恐れ、慕容評と共に龍城へ撤退しようとしたが、呉王慕容垂は「臣が迎撃いたします。もしも勝てなければ、それから逃げても遅くありません」と言った。これにより、慕容臧に代わって慕容垂を使持節・南討大都督に任じ、征南将軍慕容徳を始めとした5万の兵を与えて桓温を防がせた。また慕容垂の上表により、司徒左長史申胤・黄門侍郎封孚・尚書郎悉羅騰をいずれも参軍従事として配下につけた。さらに、慕容暐は散騎常侍楽嵩を使者として前秦へ派遣し、虎牢以西の地を割譲する事を条件に援軍を要請した。

8月、前秦は要請に応じ、将軍苟池・洛州刺史鄧羌へ騎兵2万を与え、洛陽から潁川へ派遣した。また、散騎侍郎姜撫を前燕へ派遣し、救援に応じる旨を伝えさせた。表向きは救援を名目にしていたものの、裏では密かに前燕の内情を探って併呑の隙を見つける事を目的としていた。

桓温は前燕からの降将である段思を嚮導(行軍の案内役)にしていたが、悉羅騰は桓温軍を攻撃して段思を捕らえた。桓温はまた後趙の旧将である李述を将軍として取り立て、魏・趙方面へ侵攻させていたが、悉羅騰は虎賁中郎将染干津と共に李述を攻撃して撃ち破り、桓温の士気を削いだ。

桓温は石門を開いて水運を通すため、豫州刺史袁真に命じて譙梁攻略に向かわせた。袁真は譙梁を攻略するも石門を開くには至らず、兵糧の運搬が滞って次第に晋軍の兵糧が底を突き始めた。

9月、范陽王慕容徳は騎兵1万を、蘭台治書侍御史劉当は騎兵5千を率いて石門に駐屯して水路での糧道を阻み、豫州刺史李邽[18]は五千の兵を率いて陸路での糧道を遮断した。また、慕容徳は将軍慕容宙に1000騎を与えて前鋒とし、東晋軍を攻撃させた。慕容宙は800騎を三方に伏せると共に、200騎のみで東晋軍に挑ませると、戦わずして後退させた。東晋軍がこれを追撃すると、伏せていた兵により奇襲をかけ、東晋軍に大打撃を与えて多数を討ち取った。

桓温は戦況が不利となり、兵糧が不足しているのに加え、前秦から援軍が到来しているとの報を受けたので、舟を焼き払い、輜重や武具を放棄して陸路で退却を始めた。東燕より倉垣へ出ると、井戸を掘って水を確保しながら700里余りを進んだ。

慕容垂は騎兵八千を率いて徐行してその後を追い、桓温が撤退の速度を速めるとこれを急追し、襄邑で追いついた。慕容徳は軽騎四千を率いて間道より先行し、襄邑の東の谷川に兵を伏せており、共に東晋軍を挟撃して3万を討ち取った。前秦の将軍苟池もまた桓温が軍を後退させたと聞いて焦において攻撃し、桓温軍は1万の被害を受けた。孫元は武陽に拠って前燕に抵抗したが、前燕の左衛将軍孟高はこれを捕らえた。

10月、桓温は山陽まで退却すると敗残兵を収集した。また、この敗戦を大いに恥じ、その罪を全て袁真に帰し、彼を廃して庶人に降とすよう上表した。袁真は桓温に誣告されたと知り大いに怨み、寿陽に拠点を構えて密かに前燕と内通し、救援を請うた。慕容暐は大鴻臚温統を派遣して袁真を使持節・都督淮南諸軍事・征南大将軍・護南蛮校尉・揚州刺史に任じ、宣城公に封じる旨を伝えさせたが、温統は淮河に至る前に亡くなった。

慕容垂の出奔

桓温との大戦以降、前燕と前秦は修好を結ぶようになり、たびたび使者が鄴へ往来するようになった。慕容暐もまた前燕の給事黄門侍郎梁琛・散騎侍郎郝晷を使者として前秦の首都長安へ送ったが、郝晷は前秦の安定ぶりを見て密かに前燕に見切りを付け、その内情を洩らしてしまった。

慕容垂が襄邑から鄴へ帰還すると、桓温撃退の功績によりその威名は大いに轟くようになった。慕容評はもともと彼の事を快く思っていなかったが、ここに至って益々忌避するようになった。慕容垂は「今回募った将士は、みな命がけで功績を建てました。特に将軍孫蓋らは精鋭と戦って強固な敵陣を陥しました。どうか厚い恩賞を賜りますよう」と上奏したが、慕容評はこれを握りつぶした。これ以降も慕容垂は幾度もこの事を要請したので、遂に慕容評と朝廷で言い争うようになった。可足渾皇太后もまたかねてより慕容垂を嫌っており、今回の戦功を不当に引き下げた。さらには、慕容評と共に慕容垂誅殺を謀るようになった。

11月、慕容垂は難を避けるために龍城へ移ろうと思い、狩猟を願い出た上で平服で鄴を出奔し、そのまま龍城へ向かった。だが、邯鄲にいる慕容麟が父である慕容垂の脱走を告訴したので、慕容評は慕容暐へこの事を告発し、西平公慕容強に精鋭兵を与えて追撃を命じた。その為、慕容垂は進路を変更して洛陽に入ると、前秦に亡命した。慕容評は范陽王慕容徳・車騎従事中郎高泰らが慕容垂と仲が良かったのでみな免官としたが、やがて高泰を復帰させて尚書郎に任じた。

慕容評の失政

同月、前秦へ使者として派遣されていた給事黄門侍郎梁琛が鄴に帰還した。梁琛は慕容評へ「秦では日夜軍事訓練が行われ、多量の兵糧が陝東へ運び込まれております。我が見ますに、今の平和は長くは続きますまい。呉王垂も秦へ亡命してまった事で、秦は必ずや我らの隙を衝くでしょう。すぐにでも防備を固められますよう。今、中原が二つに別れて対立しているのは、互いに相手を併呑せんと画策した為ではあり、桓温の来寇により秦が援軍を出したのは、我らとの友好によるものではありません。もし燕に隙を見つければ、どうして彼らが本来の志を忘れましょうか!」と訴えたが、慕容評は取り合わなかった。梁琛は慕容暐にもこの事を告げたが、慕容暐もまた応じなかった。皇甫真もまた洛陽・太原・壷関の守備を固めて前秦へ備える様上疎すると、慕容暐は慕容評を呼び出してこの事を問うた。だが、慕容評は「秦は弱小であり、我らの力を頼みとしております。それに、苻堅は国交にはそれなりに気を配っております。亡命者の口車に乗り、交流を断絶するような事はしないでしょう。それより、軽率に動いて相手を警戒させる事が紛争の種となるでしょう」と反論し、結局軍備増強に動く事はなかった。

前秦の黄門郎石越が使者として到来すると、慕容評は前燕の富盛を誇示する為、盛大にもてなした。尚書郎高泰・太傅参軍劉靖は慕容評へ、豪奢な様を見せつけては益々侮られるだけであり、軍事訓練を派手に見せて敵の意気を喪失させるべきだと訴えたが、慕容評は従わなかった。高泰はこれに失望し、病気と称して職を辞した。

当時、連年にわたり兵難が続き、国力は大いに疲弊した。また、皇太后可足渾氏は国政を乱し、慕容評は財貨を貪って飽くことが無かった。そのため、朝廷でも賄賂は横行し、官吏の推挙も才能ではなく賄賂によって決まったので、下々には怨嗟の声が溜まった。尚書左丞申紹はこの状況を憂えて「守宰(郡太守や県令などの地方長官)というのは、国家を安定させる大本であります。今、守宰は正しい人を得られておらず、時には一兵卒からのし上がった武人であったり、時には貴族の子弟であったりと、郷里での選挙で選ばれた訳ではありません。朝廷の職でもそれは変わらず、法によらず官位を変動させ、怠惰な者でも刑罰を恐れず、清修な者への褒賞がありません。これにより百姓は困弊して盗賊が横行し、綱紀は衰退してしまって互いに乱れを直し合おうという風潮も無くなりました。また、官吏の数もみだりに増え、それが先代を越えてしまっております。これにより公私問わず紛然としており、甚だ乱れきっております。我が大燕の人口は、二寇(前秦・東晋)を合わせる程に多く、弓馬の力強さは四方に及ぶものがおりません。にも関わらず、近年は幾度も敗戦を喫しております。これは全て守宰の租税が公平でなく、侵漁する事を止めないので、兵卒達はみな辛苦して行軍を止め、その命に従おうとしないことに由来しております。また、後宮には四千人余りがおりますが、これに仕える者がさらに外にはおり、一日に万金を費やす事になっております。さらには、士民もこれを真似て奢靡(豪華な振る舞い)を競い合っております。あの秦(前秦)や呉(東晋)は愚かにも僭称しておりますが、それでも筋道に則って統治を行っております。奴らは天下併呑の志を持っておりますのに、我らは上下ともに一向に改めようとせず、その秩序は日毎に失われております。我らの乱れこそ奴らの望みなのです。どうか守宰の人選をより精細に行い、官吏の数を減らして下さい。兵家を労い、公私ともに浪費を節減し、物品を大切にし、功績があった者は必ず賞し、罪を犯した者は必ず罰してくださいますよう。これでこそ、温(桓温)・猛(王猛)を晒し首にする事が出来、二方を取る事が出来るのです。境を保って民を安んじるだけに留まりましょうか!また、索頭什翼犍(代王の拓跋什翼犍)は疲病により乱れており、貢物が乏しいといえども、煩いを為すことも無いでしょう。また、兵を労して遠くこれを征伐しても、損があるだけで益はありません。并州へ軍を動かすよりも、西河を控制し、南は壺関を固め、北は晋陽を重くし、西寇が来たらばこれを拒守してその後ろを断つのです。これは軍隊を無用な地の孤立した城を守らせるよりよい計画かと」と上疏し、守宰の人選見直しと官吏の削減、また経費の節減と官吏への正しい賞罰を行う様訴えたが、聞き入れられる事はなかった。

洛陽失陥

慕容暐は以前、虎牢以西の地を前秦へ割譲する約束をしたが、東晋軍が退却するとその土地を惜しむようになった。そのため、前秦へ使者を派遣して「(割譲の約束は)使者の失言です。国を保ち家を保つ者として、災害の時に助け合うのは、当然の理でしょう」と告げた。苻堅はこれに激怒し、輔国将軍王猛・建威将軍梁成・洛州刺史鄧羌に3万の兵を与え、前燕へ侵攻させた。12月、前秦軍は洛州刺史慕容筑が守る洛陽に攻め込んだ。

370年1月、慕容暐は衛大将軍慕容臧に精鋭10万を与えて洛陽救援に向かわせた。王猛は慕容筑へ書を送り、鄴からの救援軍が来る事はないと脅しをかけると、戦意喪失した慕容筑は降伏を申し出たのでこれを受け入れた。慕容臧が精鋭10万を従えて洛陽救援に向かうと、彼は新楽に城を築いて石門において前秦兵を撃破し、将軍楊猛を捕らえた。その後、滎陽まで軍を進めた。この動きを察知した王猛は梁成らに迎撃を命じ、精鋭1万を与えて急行させた。慕容臧は王猛軍の到来を予期していなかったので、備えをしておらず石門で大敗を喫し、死者は1万を数えた。その後、両軍は石門で対峙したが、慕容臧は梁成軍にも敗北を喫し、3千人余りが打ち取られ、将軍楊璩が捕らえられた。ここで王猛は軍を還すと、鄧羌に洛陽の金墉城を統治させ、輔国司馬桓寅を弘農郡太守に任じて陝城を守らせた。

2月、揚州刺史袁真が亡くなった。東晋の陳郡太守朱輔は袁真の子である袁瑾を建威将軍・豫州刺史として寿春を統治させた。また、子の朱乾と司馬爨亮を前燕へ使者として派遣し、改めて帰順の意思を告げると共に救援を要請した。慕容暐はこれに応じ、袁瑾の揚州刺史の地位を追認し、朱輔を荊州刺史に任じ、援軍を送った。4月、桓温は督護竺瑶・喬陽之に水軍を与え、袁瑾軍を攻撃した。慕容暐が派遣した援軍は武丘で竺瑶らの水軍と遭遇したが、これに敗れ去った。

桓温が2万を率いて広陵より寿春へ到達すると、袁瑾は城を固守して籠城を図った。桓温は周囲を陣営で広く取り囲み、包囲を行った。

慕容令の反乱

慕容垂の子の慕容令は父と共に前秦に亡命していたが、単独で逃げ戻って来た。だが、慕容垂は未だに前秦で厚遇されていたので、慕容暐は彼の帰順を偽りではないかと疑っており、傍には置かずに龍城の東北六百里にある沙城へ移らせた。慕容令はいずれ誅殺されてしまうと思い、密かに反乱を企み、沙城において数千の兵を養った。5月、慕容令は決起して牙門の孟媯を殺害すると、城大の渉圭は大いに恐れて降伏した。慕容令はこれを信じて側近とした。反乱軍はそのまま東方にある威徳城を襲撃し、城郎の慕容倉を殺害すると、威徳城を拠点とした。また、東西の諸砦へ檄文を発すると、大半がこれに呼応した。勢力を増大させた慕容令らは次いで龍城を襲撃した。龍城を鎮守する鎮東将軍勃海王慕容亮は、慕容麟と共に城門を閉じて籠城した。ここで渉圭が寝返り、護衛兵を指揮して慕容令を攻撃したので、慕容令は単騎で逃げ、その配下は壊滅した。渉圭は慕容令を追撃し、遂に捕らえてこれを殺し、龍城へ出向いて慕容亮へその旨を伝えた。慕容亮は慕容令のために渉圭を誅殺し、慕容令の屍を回収して埋葬した。

前秦襲来

6月、苻堅は輔国将軍王猛を総大将に任じ、楊安・張蚝・鄧羌ら10将と歩兵騎兵合わせて6万の兵を与えて、灞上より前燕討伐に向かわせた。

7月、王猛が壷関を攻め、楊安らが晋陽を攻撃した。8月、王猛襲来の報が鄴に届くと、慕容暐は太傅慕容評・下邳王慕容厲に40万[19]を超える中外の精鋭兵を与えて救援を命じた。慕容評は軍を進めて潞川に駐屯した。州郡では盗賊が大量に蜂起し、鄴中では怪異な事象が頻発したという。慕容暐は大いに恐れ、散騎侍郎李鳳・黄門侍郎梁琛・中書侍郎楽嵩を招集して「秦軍の兵はどのくらいであろうか。今、大軍がすでに出発しているが、秦は戦うだろうか」と訪ねた。これに対して李鳳が「秦は小さく、兵も弱小です。どうして王師の敵となりえましょうか。景略(王猛の字)は常才に過ぎず、太傅(慕容評)には及ばず、憂うには足りますまい」と答えたが、梁琛と楽嵩は共に「そうではありません。兵書の義には、敵を計って戦うべきであり、計略をもってこそ取る事が出来るとあります。敵と戦わず済むことを願うのは、万全の道とはいえません。慶鄭(春秋時代の晋の大臣)も『秦(春秋戦国時代の秦を指す)の衆は少ないといえども士気は我に倍しており、衆の大小など問う所ではありません』と言っております。それに秦は遠く千里の彼方より来寇したからにはどうして戦わないことがありましょう!我らも謀を用いて勝ちを得なければなりません。戦わずに済むなど、甘い考えではなりません!」と答えた。慕容暐はこの発言に不満を抱いたという。

同月、王猛は壷関を陥落させて、前燕の上党郡太守慕容越を生け捕った。王猛軍が進んだ先の郡県は全て降伏し、前燕朝廷は震え上がった。王猛は屯騎校尉苟萇に壷関の守備を任せると、楊安の加勢に向かった[20]。晋陽には兵も糧食も十分備わっていたので、并州刺史慕容荘は楊安を阻んでいた。

これより以前、慕容暐は左衛将軍孟高に騎兵を率いて袁瑾救援に向かわせ、淮北まで至った。だが、渡河する前に前燕と前秦の戦争が始まったので、8月に慕容暐は孟高を呼び戻した。同月、桓温は寿春を攻め落とし、袁瑾を殺害した。

9月、王猛が晋陽に到着すると、張蚝に命じて地下道を掘らせて城内へ進入させ、城門を内から開いた。これを合図に王猛は楊安と共に城内に突入し、慕容荘は捕えられた。慕容評は王猛に恐れを抱き、潞川に軍を留めてそれ以上進まず、持久戦に持ち込もうとした。

慕容評大敗

10月、王猛は将軍毛当に晋陽を任せ、さらに潞川へ進軍して慕容評と対峙した。慕容評は王猛軍が敵中に深入りしている事から持久戦に持ち込もうとした。だが、彼はこのような状況にあっても、山間の泉水を包囲して断つ事で資源を独占し、それにより得た散木や水を売り捌き、金銭や布帛を山のように積んでいた。士卒はみなこの事に不満を抱いており、その士気は大いに低下していた。王猛は游撃将軍郭慶に精鋭騎兵五千を与えると、夜闇に乗じて間道から敵陣営の背後に回らせ、山の傍から火を放った。この火計により、慕容評軍の輜重は焼き尽くされた。この火は、鄴からも見える程凄まじかったと言う。慕容暐はこれに驚愕し、侍中蘭伊を派遣して慕容評へ「王は高祖(慕容廆)の子であり、宗廟社稷を憂えるのべきであるに、将兵を慰撫せずに、なぜに材木や水を独占してその利益をかき集めているのか!官庫に山積する財宝を朕は王と共有しておるのに、なぜに貧しさを憂えているのか!もし賊が進撃して国を滅ぼしてしまえば、王はかき集めた銭帛をどこに収容するというのか!かき集めた銭帛は全て兵卒へ分け与え、これを督して速やかに戦闘するように!」と詰ったので、慕容評は大いに恐れ、王猛へ使者を送って決戦を告げた。

王猛は渭原に布陣すると、鄧羌・張蚝・徐成らを慕容評の陣営へ突撃させた。慕容評はこれに抗しきれず、大敗を喫して数えきれない程の将兵が殺傷された。日中には慕容評軍は潰滅し、捕虜や戦死した兵はゆうに5万を超えた。王猛はこの勝利に乗じてさらに追撃を掛けると、捕虜や戦死者の数は10万に上った。慕容評は単騎で鄴へと逃げ帰った。王猛はそのまま軍を進めると、遂に鄴を包囲した。

苟純はつて梁琛の副使として共に長安へ使者として派遣されていたが、梁琛が苻堅と謁見する際の応対について何も自分に相談しなかった事を心中恨んでおり、慕容暐へ「琛(梁琛)が長安に滞在していた時、王猛と甚だ交流を琛めておりました。もしかすると異謀を抱いたかもしれませんぞ」と讒言した。また、梁琛は帰国してから度々苻堅や王猛を称える発言をしており、また前秦軍の襲来に備えて軍備を厳重にするよう告げていた。その為、梁琛の予測通り前秦は襲来すると、慕容暐は大いに内通を疑った。ここに至って遂に梁琛を内通者と断定し、投獄した。

鄴陥落

11月、苻堅は自ら精鋭10万を率いて王猛と合流し、鄴の攻撃を開始した。宜都王慕容桓は1万騎余りを率いて沙亭へ進軍し、慕容評の後援となっていたが、慕容評の大敗を聞き、内黄まで撤退した。苻堅は鄧羌に信都を攻撃させると、慕容桓は鮮卑兵5千人を率いて龍城へ逃げた。

同月、夫余の王太子である余蔚は前燕に仕えて散騎侍郎の地位に就いていたが、鄴城内で反旗を翻して夫余・高句麗及び上党の質子(人質)五百人余りを率い、鄴の北門を開けて前秦兵を招き入れた。これを聞いた慕容暐は急ぎ城を飛び出し、上庸王慕容評・楽安王慕容臧・定襄王慕容淵・左衛将軍孟高・殿中将軍艾朗らと共に城から逃亡して龍城へ向かった。慕容暐が城を出た時、衛士数千騎余りが付き従っていたが、すぐに散亡してしまい、数十騎のみが付き従った。

慕容暐の逃亡は困難を極め、孟高が側に侍り、慕容評・慕容臧が護衛しながら進んだが、みな疲労困憊であった。また、野盗にも襲撃され、これと戦いながら前進した。数日して福禄へたどり着き、塚で一休みしていると、20人余りの賊に襲われた。孟高・艾朗は死に物狂いで奮戦するもあえなく射殺され、慕容暐はこの混乱で馬を失ったが、かろうじて徒歩で逃げる事が出来た。

苻堅は慕容暐の逃走を知るとすぐさま郭慶に追撃を命じており、郭慶は高陽で慕容暐を捕捉した。慕容暐は郭慶配下の巨武によって生け捕られると、その巨武へ「汝の如き小人が、天子を縛するか!」と言い放つと、巨武は「我は梁山の巨武である。詔を受け賊を追う様に命を受けたのだ。どうしてこれが天子と言えようか!(自分にとっての『天子』は大秦天王苻堅のみであり、対立皇帝の1人である慕容暐は『賊』でしかない)」と言い返した。慕容暐は苻堅の下へと護送されると、苻堅は降伏せずに逃亡を図った理由を詰問した。慕容暐は「狐は死す時、生まれ育った丘に頭を向けるという。先人の墳墓の前で死ぬ事を願ったまでだ」と答えた。苻堅はこれに哀れみ、縄を解かせてやった。さらに、一旦鄴の宮殿に帰らせると、改めて文武百官を伴ってから降伏させた。慕容暐の在位は約11年であった。

慕容暐は苻堅へ、孟高と艾朗が忠義に殉じたことを語ると、苻堅は彼らを厚く埋葬し、その子らを郎中に抜擢した。

郭慶は残党の追撃を続けて龍城まで進むと、慕容評は高句麗へ逃げたが、高句麗は慕容評を捕らえて前秦へ送った。宜都王慕容桓は渤海王慕容亮を殺してその部下を吸収すると遼東へ逃げたが、遼東郡太守韓稠は既に前秦へ降伏しており、慕容桓はこれを破る事が出来なかった。郭慶は配下の朱嶷を派遣して慕容桓を追撃して大いに破り、慕容桓は部下を捨てて単騎で逃走するも、朱嶷に斬り殺された。これにより、諸州の牧・守・六夷の統領などは尽く前秦へ降伏した。前秦が占領した領土は157郡、246万戸、999万人に及んだ。前燕の宮人や珍宝は褒賞として、前秦の将士に分け与えられた。

その後

前秦の臣下

12月、苻堅は鄴宮に入り、正陽殿に昇った。慕容暐は前燕の后妃・王公・百官・鮮卑4万戸余りと共に長安へ連行された。長安に至ると、新興侯に封じられ、五千戸を食邑として与えられた。やがて尚書に任じられた。また、司馬にも任じられた。

378年2月、長楽公苻丕・武衛将軍苟萇らと共に歩兵・騎兵併せて7万を率い東晋領の襄陽攻略へ向かった。4月、前秦軍は沔北から漢水を渡り、襄陽へ侵攻した。379年2月、襄陽を陥落させた。

383年8月、苻堅が東晋征討に乗り出すと、慕容暐は平南将軍・別部都督に任じられ、征南将軍苻融・驃騎将軍張蚝・撫軍将軍苻方・衛軍将軍梁成・冠軍将軍慕容垂と共に歩兵・騎兵合わせて25万を率いて前鋒となった。10月、慕容暐らが寿春を陥落させ、東晋の平虜将軍徐元喜・安豊郡太守王先を生け捕りとした。その後、員城に駐屯した。11月、苻堅が淝水の戦いで大敗を喫すると、慕容暐は軍を放棄して逃走し、滎陽に至った。叔父である奮威将軍慕容徳はこの混乱に乗じて再起するよう勧めたが、慕容暐は従わなかった。その後、苻堅に従って長安に帰還した。

384年2月、叔父の慕容垂は丁零・烏桓の兵20万余りを率いて前秦に反旗を翻した。3月、弟の慕容泓もまた関東の鮮卑部族を集結させて反旗を翻した。これを受け、慕容暐は密かに諸弟や宗族へ、長安の外で兵を起こさせるよう画策した。だが、苻堅の防備が甚だ厳重だったので、時機を得られなった。

4月、慕容泓の軍勢に慕容沖も加わり、その勢力は10万余りに膨れ上がった。慕容泓は苻堅のもとへ使者を派遣し「呉王(慕容垂)は既に関東を平定しており、速やかに大駕を準備している。我が家の兄皇帝(慕容泓は慕容暐の弟)を奉送していただきたい。そうすれば、泓(慕容泓)は関中の燕人を率いて乗輿を護衛し、鄴都へ帰還する。以後は虎牢を国境と定め、秦と長く修好を保とうではないか」と告げるた。苻堅はこれに激怒し、慕容暐を召し出すと「今、泓はこのような書を送ってきた。卿が去りたいならば朕は助けてやるつもりだ。しかし、卿の宗族は人面獣心(恩義や人情を弁えない恥知らずな人を指す)であり、とても国士として共にすることなどできん!」と詰った。慕容暐は流血するほど叩頭し、涙を流して謝罪した。しばらくした後、苻堅は「これは三豎(慕容垂・慕容泓・慕容沖の事。豎とは未熟な者の意)の為した事であり、卿の過ちではない」と述べ、慕容暐への待遇は従来通り変わりなかった。また、苻堅は慕容泓・慕容沖・慕容垂を説得するよう、慕容暐に命じた。だが、慕容暐は密かに慕容泓へ使者を派遣して「吾は籠中の人であり、必ずや帰ることは出来ないだろう。それに、我は燕室を滅ぼした罪人であり、顧みるには足りぬ。汝は大業を建てる事に努めよ。呉王(慕容垂)を相国に、中山王(慕容沖)を太宰・領大司馬に、汝を大将軍・領司徒に任じ、承制封拝を委ねる。そして、我の訃報を聞いたならば、汝が尊位(皇帝位)に昇るがよい」と告げた。これを受け、慕容泓は燕興と改元して正式に自立を標榜し、長安へ向かって進撃した。

最期

11月、慕容暐は慕容恪の子である慕容粛と結託し、長安一帯に未だに留まっていた鮮卑族千人余りを従え、慕容沖に呼応しようと画策した。

12月、慕容暐は子の結婚を理由に苻堅を新居へ招き、伏兵を置いて暗殺しよう考えた。その為、まずは前燕の旧臣である悉羅騰・屈突鉄侯らに密かに命じて、長安一帯にいる鮮卑族へ「朝廷は今、侯(前秦の新興侯である慕容暐)を外鎮させようとしており、旧人(もともと前燕にいた民)はみなこれに付き従うと聞いている。日を選んで場所を指定するので、集結するように」と告げ、敢えて真意は伝えずに反乱の準備を行い、鮮卑はみなこれを信じた。

また、慕容暐は東堂に入ると、苻堅へ稽首して「弟の沖(慕容沖)は義方を知らず、一人で国恩に背いており、この罪は万死に当たると臣は考えます。陛下は天地の容を垂れ、臣は更生の恵を蒙っております。ところで、臣の次男は先日に結婚し、明日で三日となります。愚かしいとは思いますが、願わくばしばらく鑾駕(天子が行幸の際に乗る車)を屈していただき、臣の私邸にいらして頂ければ幸いです」と述べ、一族の反乱を謝罪すると共に邸宅へ招聘しすると、苻堅はこれを承諾した。だが、この夜に大雨が降り始め、夜明けまで続いたので、苻堅は結局出発する事が出来なかった。

長安にいる鮮卑の1人に北部出身の竇賢という人物がおり、彼は悉羅騰からの外鎮命令を受けて妹に別れを告げた。妹は兄との別れを惜しみ、彼女は前秦の左将軍竇衝の妾であった事から、竇衝にこの件を話して兄を長安へ留めてもらうよう頼みこんだ。だが、竇衝は鮮卑を外に出すという話を聞いていなかったので、これを不審に思って苻堅の下へと急ぎ走ると、彼女から伝え聞いた内容を報告した。苻堅はこれに大いに驚き、すぐに悉羅騰を呼び出して事の次第を問い質すと、拷問の末に悉羅騰は謀略の全容を告白した。これを受け、苻堅は慕容暐と慕容粛を呼び寄せた。これに慕容粛は「陰謀が漏れたのでしょう。宮殿へ行けば死あるのみです。城内は既に警備が厳重ですが、使者を殺して逃げるしかありません。門を出られれば、衆を集められるでしょう」と勧めたが、慕容暐は従わずに共に入朝した。苻堅は「我は汝らと誠実に待遇してきたのに、どうしてこのような事をなすのだ」と問い詰めると、慕容暐は飾った言葉で言い訳をしたが、慕容粛は「家国の事は重いのだ。どうしてその心を論じようか!」と言い放った。苻堅はまず慕容粛を殺すると、次いで慕容暐もまたその宗族と共に殺害された。享年35であった。さらに、苻堅は城内の鮮卑を幼長・男女の区別なく皆殺しにした。

400年、叔父の慕容徳が皇帝を称して南燕を興すと、慕容暐を幽皇帝と追諡した。

人物

慕容暐の治世においては、ほとんどの期間において慕容恪・慕容評・皇太后可足渾氏らが朝政を主管していたので、彼自身が主体的に行動を起こすことはあまりなかった。そのため、その性格や人物像を表す記述もはほとんど記されていないが、『十六国春秋』には庸弱(大して取柄もなく、困難に立ち向かう気力が無い事)であったと記されている。

学問には幼い頃より関心を示しており、政務を太宰慕容恪に委ねていた頃、博士王歓[21]・助教尚鋒・秘書監[22]杜詮より経学を学び、同時に経書を講究する為に側近とも講論したという。これにより次第に諸々の経書に通じるようになり、東堂において孔子を祀るようになった。また、王歓は国子祭酒に、尚鋒は国子博士に、杜詮は散騎侍郎に任じられ、経学について侍講する者はみな官位を授かった。

逸話

李績を左遷

  • ある時、慕容儁は群臣を鄴の蒲池に集めて酒宴を催した。この時、司徒左長史李績へ「景茂(慕容暐の字)は幼沖であり、その器芸に目立ったところはまだ見られていないが、卿はどう思うか」と問うた。李績は「皇太子は天資にして岐嶷で、その聖敬は日が躋(昇)るように、八徳は静かながらも聞こえておりますが、二つの欠がいまだ補われておりません。遊田(狩猟)を好み、絲竹(音楽)に心を奪われる傾向があります。これが残念でなりません。」と答えた。慕容儁は側に侍っていた慕容暐を顧みて「伯陽(李績の字)の言は、薬石の恵である。汝はこれを心に留めておくように」と訓じた。だが、慕容暐はこれに不満を抱いた。その後、慕容儁は臨終に際し、李績を重用するよう慕容恪へ遺しており、慕容暐が即位した後の360年11月、慕容恪は遺言に従って李績を尚書僕射に任じるよう進言したが、慕容暐はかつての李績の発言に恨みを抱いており、これを認めなかった。慕容恪は幾度も進言を繰り返したが、慕容暐は慕容恪へ「万機の事は叔父に委ねているが、伯陽一人に関しては、この暐に裁かせてもらう」と取り合わず、その後章武郡太守に左遷した。やがて李績は憂悶の余り亡くなったという。

水害・旱魃の発生

  • 366年3月[23]、当時前燕国内では水害や旱魃が多発していた。これを受け、慕容恪・慕容評は進み出て、慕容暐へ稽首して「臣らは朽暗であり、経国の器ではありません。過ぎたる荷ではありますが、先帝から抜擢の恩を受け、また陛下からも殊常の遇を蒙りました。軽才な者が猥りに宰相の地位を窃位しても、上は陰陽を調和させる事も、下は庶政を治める事も出来ません。そして水旱(水害・旱魃)により和を失い、彝倫(人が常に守るべき道)の順序が乱れるに至りました。轅(馬車の前方に二本出ている舵となる棒)は弱いにも関わらず任は重く、夕(夜)には慎んでただ憂いております。臣らが聞くところによりますと、王者とは天に則して国を建て、方を弁えて位を但し、司(役人)は必ず才を量り、官(官僚)はただ徳をもって取り立てるものです。台傅の重とは三光を參理するものであり、苟しくも正しい人を得られなく場、則ち霊曜(天)を汚す事になります。『尸禄は殃を貽し、負乗は悔を招く(無能な高官は災いを残し、小人なる君主は後悔を招く)』とは、古来からの常道であり、未だこれに違ったことはありません。旦(周公旦)はその勲聖をもって、近くは二公(呂尚・召公奭)の不興を買い、遠くは管(管叔鮮)・蔡(蔡叔度)の流言を招きました。どうして臣らは縁戚の寵がために才に釣り合わぬ栄を授かり、久しく天官を汚すを可とし、賢路を塵蔽出来ましょうか!ここに中年をもって上奏し、丹款(誠意)を披陳(思いを隠さず述べる事)する次第です。聖恩は遐棄を忍ばず、旧臣として取り立てましたが、何もせずに栄誉を盗んでいては、その過ちは厚くなるばかりです。鼎司の身分のまま罪を待ちましたが、歳余して辰の紀となりました。忝くも宰衡を冒し、ここにおいて七載となります。心に経略を有してはおりますが、その務めを全うする事が出来ておらず、二方(東晋・前秦)に干紀(道理に背く事)させ、その跋扈を未だ裁く事が出来ておりません。同文(国民)の詠には、盛漢を慚する思いが見え、先帝より託付された規に深く乖離しており、陛下の垂拱(天下が平穏に治まっている事)の義にも甚だ違っております。臣らは鋭敏ではありませんが、君子の言を密かに聞きますに、虞丘(春秋時代楚の虞丘子)の避賢の美を敢えて忘れ、すなわち両疏(前漢の疏広・疏受)の知止の分に従います。謹んで太宰・大司馬・太傅・司徒の章綬を返上いたします。ただ昭かなる許しをを垂れん事を」と上表し、輔政の任を降りて邸宅に帰ることを願い出た。だが、慕容暐は「朕が天の助けを得られていないばかりに、早くに乾覆(天からの覆い)は傾いてしまった。先帝が託したのはただ二公(慕容恪・慕容評)のみである。二公は懿親(親しい親族)にして広大な徳を有し、その勲功は魯・衛よりも高く、王室を翼賛(補佐)し、朕躬(私)を輔導してくれている。宣慈(博愛)にして恵和を有し、座して旦を待つように心情は切迫し、夕になっても怠る事は無く、美の極致である。故に外においては群凶を掃い、内においては九土を清める事が出来、四海は晏如(安らかで落ち着いている様)し、政は和して時に適っている。宗廟・社稷の霊すらも、公らの力によるものかもしれない。今、関右(関西)では未だ氐が従わず、江・呉の地では燃え残った虜がおり、まさしく謀略に頼り、六合を混寧させねばならぬ時なのだ。どうして虚己・謙沖なる態度で委任の重を違えてよいだろうか!王はその独善の小なる二疏を割き、公旦(周公旦)の復袞(皇帝の礼服である袞衣を返上するという意味。周公旦が成王の幼い頃は摂政となり、成人すると政権を返上した故事を指している)の大を成すように」と述べ、訴えを退けた。慕容恪・慕容評らはなおも政権を返上する事を請うたので、さらに慕容暐は「そもそも徳を立てる者は必ず善で終える事で名を為し、佐命たる者は功を成す事をもって手柄としたのだ。公らと先帝は洪基(大きな事業の基礎)を開構し、天命を承受し、まさに広く群醜を夷滅し、隆周の跡を再興したのだ。災いが橫流して乾光は輝きを失ってしまい、朕は眇小な身でありながら猥りにも大業を担う事になったが、上は先帝の遺志を成す事も出来ずに二虜(東晋・前秦)を遊魂させており、功は未だ成っておらず、どうして沖退(謙虚に辞退)するべき時であろうか。それに古の王者とは、天下に栄華をもたらす事が出来なければ、四海を担っているかのように憂い、然る後に仁譲の風を吹かせ、比屋(家々)は徳行に富むに至ったのだ。今、道化は未だ純ならず、鯨鯢(悪党)は未だ殄されず、宗社(宗廟・社稷)の重は、朕の身だけではなく、公らが憂う所である。そこで考えるのは、兆庶を寧済して難を靖んじ風を敦くし、美を将来に垂れんとする事だ。さすれば周・漢の事跡に並ぶであろう。至公に違っている事をもって常節を崇飾するべき時ではないのだ」と述べると、2人が提出した辞表を破り捨てた。これにより慕容恪・慕容評らも遂に考えを改めた。
  • 同年5月、慕容暐は依然として旱魃が終わらない状況を憂え、下書して「朕が寡徳であり、政務に臨んでは多くを違えた。亢陽は三時に渡り、光陰の順序は乱れ、農植の辰になっても零雨すら降らなくなった。有司は楽(歌舞音楽)に徹するようにし、大官は菜食をもって常に祭奠を供えるように」と命じた。その後、間もなく大雨が降ったという。

怪異譚

  • 361年1月の乙丑の日、の時間に危宿(別称を危月燕という)に位置していた月が太白(金星)に覆い被さるという出来事があった。占い師はこれを見て「天下は靡散せん」と予言したという。
  • 365年2月の丙子の日、参宿に位置していた月が熒惑(火星)に覆い被さるという出来事があった。占い師はこれを見て「参魏(三国時代の魏。参とは三の代用字)の地は燕にありて、まさに災いに見舞われるであろう」と予言した。これは前燕の滅亡を予期したものだという。
  • 368年12月、鄴において神が舞い降り、自らを相汝[24]と称した。声を発して人と接して親交を深めると、数日してから去って行った。

宗室

脚注

  1. ^ 『十六国春秋』では352年とする
  2. ^ 『十六国春秋』では2月とする
  3. ^ 『十六国春秋』では3月の出来事とする
  4. ^ 『十六国春秋』では7月とする
  5. ^ 『十六国春秋』では傅末波とも
  6. ^ 『十六国春秋』では2月とする
  7. ^ 『十六国春秋』では7月とする
  8. ^ 『十六国春秋』では6月とする
  9. ^ 『十六国春秋』では8月の出来事とする
  10. ^ 『資治通鑑』では、潁川郡太守李福の戦死と汝南郡太守朱斌の寿春への逃走は4月の出来事とする
  11. ^ 『十六国春秋』では7月とする
  12. ^ 『晋書』では趙弘と記載される
  13. ^ 『十六国春秋』では趙槃とも
  14. ^ 『十六国春秋』では羅宗とも
  15. ^ 『晋書』では「先帝は天に時に応じ、命を受けて代を革め、まさに文徳を以って遠きを思い、以って六合を一としようとされました。しかし、神功の未だ成らざるに、忽ちに升遐されてしまわれました。その昔、文王が没した時、武王が興を嗣がれたと言います。畏れ多くも陛下を惟んみますれば、天と徳を同じくし、聖を揆(図)し功(力)を斉しくしており、方に乾基を拡大し、先志を纂して達成すべきです。逆は関隴に拠点を構え、同じ王者を号しましたが、悪を積み禍で盈す事によって、互いに戮を疑うようになり、遂には釁を蕭牆で起こし、その勢は四国に分かれするに至りました。投誠して救援を求めてていますが、旬日の内に、そのそれぞれから至っています。凶運が潰えようとしており、有道に帰そうとしているのです。兼弱攻昧、取乱侮亡は、機の上です。今、秦土は四分されており、弱勢と言えましょう。時運が整ったのです。天が我らに加勢しているのです。天の与えたるを取らざるは、逆に天から殃を受ける事になりかねません。呉越の鑒は、我らの師とすべきです。ここは天人の會(機会)に応じて、牧野の旗を建てる時に他ならないのです。ここは、皇甫真に并冀の兵を率いて、蒲坂に急行するよう命じるのです。臣垂(慕容垂)には許洛の兵を率いさせて、の包囲を解かせに向かわせるのです。太傅(慕容評)には京都の武旅を率いさせて、この二軍に続かせて援護となすのです。三輔に檄を飛ばし、仁を先路に喧伝させるのです。城を落とした者は侯に封じ、微功であっても必ず賞する、と。さすれば、鬱概とした待時の雄、抱志ながらも未申の傑は、必ずや上に岳峙し、隴下に雲集しましょう。天羅が張り巡らされ、内外が勢を合すれば、区々たる僭豎は逃げる事も叶わず、降服しましょう。大同の挙は、今がその時なのです。願くは陛下が聖慮を独断されますように。二公に尋ねてはなりません」と記載される。
  16. ^ 『十六国春秋』では8月とする
  17. ^ 『十六国春秋』では8万とする
  18. ^ 『十六国春秋』では李邦とも
  19. ^ 『十六国春秋』では30万余りとする
  20. ^ 『十六国春秋』では、王猛が救援に向かうのは翌月の事とする
  21. ^ 『十六国春秋』では王勧とも
  22. ^ 『十六国春秋』では秘書郎とも
  23. ^ 『十六国春秋』では2月とする
  24. ^ 湘女とも

参考文献