コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「公孫越」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「昕」が本来の用字の各人物記事の改名に伴うリンク修正依頼 (周昕) - log
35行目: 35行目:
[[初平]]2年(191年)、[[袁術]]は[[劉虞]]の子[[劉和 (後漢)|劉和]]を配下とした。しかし、劉虞と仲が悪かった公孫瓚は、対抗手段として公孫越を袁術の下に派遣し配下とさせ、また、密かに公孫越に命じて劉和を逮捕しようと目論んだ。結局、劉和は逃亡して[[袁紹]]の下に逃れたため、公孫瓚と劉虞の関係は更に悪化した。
[[初平]]2年(191年)、[[袁術]]は[[劉虞]]の子[[劉和 (後漢)|劉和]]を配下とした。しかし、劉虞と仲が悪かった公孫瓚は、対抗手段として公孫越を袁術の下に派遣し配下とさせ、また、密かに公孫越に命じて劉和を逮捕しようと目論んだ。結局、劉和は逃亡して[[袁紹]]の下に逃れたため、公孫瓚と劉虞の関係は更に悪化した。


同年、袁紹陣営の周昂(『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書公孫瓚伝。一方、『[[後漢書]]』公孫瓚伝によると、[[周キン|周昕]]とされる)が陽城の[[孫堅]]の陣地を奪った。折りしも袁紹との関係が悪化していた袁術は、孫堅と公孫越に命じて、周昂を攻撃させた。しかしこの戦いで、公孫越は流れ矢に当たり死亡してしまった。公孫越の死は、公孫瓚の袁紹への対決姿勢を強めることにつながった。
同年、袁紹陣営の周昂(『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書公孫瓚伝。一方、『[[後漢書]]』公孫瓚伝によると、[[周昕]]とされる)が陽城の[[孫堅]]の陣地を奪った。折りしも袁紹との関係が悪化していた袁術は、孫堅と公孫越に命じて、周昂を攻撃させた。しかしこの戦いで、公孫越は流れ矢に当たり死亡してしまった。公孫越の死は、公孫瓚の袁紹への対決姿勢を強めることにつながった。


== 物語中の公孫越 ==
== 物語中の公孫越 ==

2020年8月11日 (火) 09:48時点における版

公孫 越(こうそん えつ、? - 191年)は、中国後漢時代末期の武将。幽州遼西郡令支県の人。従兄は公孫瓚家系は遼西公孫氏。同じく公孫瓚の従弟とされている公孫範との関係は不明で、兄弟とも従兄弟とも考えられる。

正史の事跡

姓名 公孫越
時代 後漢時代
生没年 生年不詳 - 191年初平2年)
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 幽州遼西郡令支県
職官 〔不詳〕
爵位・号等 -
陣営・所属等 公孫瓚袁術
家族・一族 一族:公孫瓚(従兄)

公孫範(兄弟?,従兄弟?)
公孫続(公孫瓚の子)

初平2年(191年)、袁術劉虞の子劉和を配下とした。しかし、劉虞と仲が悪かった公孫瓚は、対抗手段として公孫越を袁術の下に派遣し配下とさせ、また、密かに公孫越に命じて劉和を逮捕しようと目論んだ。結局、劉和は逃亡して袁紹の下に逃れたため、公孫瓚と劉虞の関係は更に悪化した。

同年、袁紹陣営の周昂(『三国志』魏書公孫瓚伝。一方、『後漢書』公孫瓚伝によると、周昕とされる)が陽城の孫堅の陣地を奪った。折りしも袁紹との関係が悪化していた袁術は、孫堅と公孫越に命じて、周昂を攻撃させた。しかしこの戦いで、公孫越は流れ矢に当たり死亡してしまった。公孫越の死は、公孫瓚の袁紹への対決姿勢を強めることにつながった。

物語中の公孫越

小説『三国志演義』では、公孫越は公孫瓚の弟となっている(ただし、当時は従兄弟が兄弟同然に扱われているため、『演義』の記述が完全な創作とは言い切れない)。公孫瓚の命により、冀州の分割を袁紹に申し入れる使者となったが、任務から帰る途中、袁紹の騙し討ちに遭い、矢で射殺されている。

参考文献

関連項目