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* 6世紀中頃の中国、[[玉壁の戦い]]([[546年]])において、籠城する勢力に対し、揺さぶり目的で矢文が送られている。 |
* 6世紀中頃の中国、[[玉壁の戦い]]([[546年]])において、籠城する勢力に対し、揺さぶり目的で矢文が送られている。 |
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* [[548年]]、中国の建康城中に矢文を送ることで入城の手はずをつけている([[ |
* [[548年]]、中国の建康城中に矢文を送ることで入城の手はずをつけている([[陳昕]]の項を参照)。 |
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2020年8月11日 (火) 09:37時点における版
矢文(やぶみ[1])は、手紙を弓矢を用いて遠くから放ち、文書を送る手段の一つ。手紙を矢柄(やがら)に結びつける方法の他、蟇目(ひきめ)の穴の中に入れて射て飛ばしたり、鏃(やじり)に直接文を刺して、それを放つ場合もある。
概要
前近代では、戦時中、互いに直接手紙を渡せない状況下で行われることが多い(弓を射る側は相手側に存在を悟られないように放つ)。また、時代劇と言ったドラマや漫画などの創作物の中では、果たし状を送る際、矢文の方法を用いる演出がある。
利点
- 直接渡さず、一定の距離から送れるので、その時だけは正体を明かさずにすむ。
- 緊迫した状況下では、身の安全を保ちながら、警戒している相手に文を伝達する手段として即席性がある。相手側も矢文を送って来た者をむやみに詮索しようとすれば、射抜かれる可能性があるので下手に追えない。いわば、文を送ると同時に、威嚇行為にもつながっている。
- 相手に怪我を負わせても構わない時、直接見える状態でなくとも使用できることがある。これが挑発文なら問題はない。ただし相手に刺さった場合、その流血で文が汚れる場合があるため、極力避けた方がよく、やはり人に当てない方が好ましいといえる(武器である矢の弊害の一つといえ、この点で伝書鳩の方が文は汚れない)。
- 石や枝に文を結びつけて手で直接投げた場合、対象に当たる反動によって着地がままならない場合がある[2]。それに対し、目標が見えている必要はあるものの、矢はしっかりと目標に着刺する。
- 伝書鳩を飼育している鳩舎の無いところへも送ることができる。
- 船上では、状況によっては、舟で文を送るより早い[3]。
- 塀や城壁などがあっても、矢が届けば、それを乗り越える必要がない。
- 攻撃に見せかけて内通(密通)する事ができる(スパイ活動)。
- 武士の矢の長さの基準は十二束三伏(つまり、拳12個分に指3本)。鏃の長さは含まない[4]。仮に拳幅8cm、指幅3cmとするなら、その平均は、100cm前後+鏃の長さとなる。伝書鳩よりは大きな文を巻き付ける事が可能である。
欠点
- 雨風が強い日には困難である。
- 怪我をしたなどで腕が悪くなっている場合、人に当たる可能性があり、飛距離にも影響が出る(その日の状況に左右されやすい)。
- 場所を選ぶ必要がある。射手が相手側に見られないことと障害物が少ないことが条件となる[5]。障害物がない上空に向かって矢を放つ場合、落ちるまでの時間差があるので矢文の時にこの技は用いない(この間、強風が吹いたり、物が飛んでくる可能性もあるため)。
- 飛距離に限りがある。遠くても150m前後(術者の腕にもよる)。遠ければ遠いほど別の場所へ落ちる可能性が高くなる[6]。この点は、伝書鳩の方が圧倒的に優れていると言え、鳩が途中で死なない限り、遠くまで運べる上に、人の方は安全である。
- 当然、運べる重量には限度がある[7]。
- 手紙を隠して運ぶのが難しい。
- 誤って、別の場所(人間)に届いた場合、情報漏洩に繋がる(矢文の場合、この危険性が高い)。
- 送れる文の数は、矢の本数に限られる場合がある。一本の矢に複数の文を巻きつけると飛距離に影響を及ぼす。
- 当然、矢を壊したり、無くしたりすれば、矢文を行うことはできない。
- 相手方が識字率の低い、あるいは文字文化の無い民族の場合、矢文による交渉・挑発などの戦略は意味を成さない(従って、使いを直接出して交渉する他ない)。文字文化圏が異なる人種についても同じであり、相手の文化を知らないと用いることは不可能である(前近代では、異国であっても漢文という共通文が東・東南・北アジアで通じたため、有効であった)。
緊迫した状況下で行われることが多い伝達手段のため、即席性はあってもリスクが多くなるのは当然のことであり、利点より欠点の方が大きい。また、利点には条件付のものが多い。
歴史
矢文と言った行為がいつ頃から行われてきたのかは定かではないが、古代では紙は貴重なものであり、相当緊迫した状況でもない限り、ぞんざいには扱えなかったものとみられる。そのため、紙の生産技術が向上していなかった日本の律令時代に矢文を行うことは少なかったものと考えられる[8]。少なくとも17世紀初めの頃では盛んに矢文が用いられていたことが分かる。
紙の生産技術の発展以前にも、識字率の問題や文書と言った文化の普及度合いも矢文の歴史を知る上では重要となってくる。中世の東日本は西日本と比べると非常に文書史料が少ない。文字を書ける者が少なかったからだと解釈されがちではあるが、東国武士が西国に移住すると、たくさんの文書を残している。東国出身の熊谷氏は西国に移住してから文書を多数伝えているし、東国武士が多く移住した九州は中世の武家文書が多く残った地域となった[9]。こうした考察からも、東国武士も、中世においては文字を書くことができたが、中世武家文書の資料の多さ=文書の普及率から考えれば、東国より西国で矢文文化が生じた可能性が高い。それも東国武人が西国に移住してからと考えられる。加えて、応仁の乱を迎えると、戦乱を逃れた畿内の知識人が東日本に移住してくる例が増え[10]、日本全体で識字率が高まる時期に移る。こうなってくると、上級武士でなくとも文を書ける下地が社会的に形成されてくる。同時に、各地で頻繁に戦乱が生じる時代(戦国期)へと移ったことで、矢文を用いる状況も増えた。武家社会の混乱が矢文文化を普及させた要因でもある。
- 矢取島(宿島)の島名由来伝説では、神代に、夫と別れた女神が自分の子に矢文を送ったと言う話がある。上述のように、紙の歴史を考えれば、後世に創られた話と考えられる。
- 中世では、互いに矢文を放ち、悪口を書いた文を送りつけ合った上で、合戦におちいったという話がある。交渉のためではなく、挑発目的で用いられた(互いに罵倒しあった上で合戦に入るというスタイル自体は、源平合戦の頃より見られる)。
- 『土佐物語』巻第十三に、大高坂長門守が大高坂城より小高坂城に内通事があって、遠矢を射た記述があり、両城の間は10余町=約1100メートルもあったが、小高坂城で食事中の武士の飯椀に当たったと記述される。
- 江戸時代以前では、商人など武家以外の身分も矢文を盛んに用いていたが、江戸期に移り、武器規制が進むにつれ、矢文文化は武家に限られていった。
- 上泉信綱伝の『訓閲集』(大江家の兵法書を戦国風に改めた兵書)巻五「攻城・守城」には、「敵城中に裏切りを示唆する内容の矢文を放ち、敵を惑わす事は、古くからある事」と記述されている。
- 『小田原北条記』巻七に、永禄12年(1569年)に拓植三郎左衛門が伊勢国大河内城に矢文を放ったが、内容は信長軍と和談を申し込むべきといった記述。
- 慶長5年(1600年)の伏見城攻城戦の際、7月30日に長束正家が城内にいる甲賀の地侍宛てに矢文を放っているが、内容は、妻子を捕え、人質としているので、その命と引き替えに寝返りをするように要求するものだった[11]。翌8月1日、甲賀者によって松の丸が放火され、裏切りという形により籠城戦は崩れる。矢文による結束力を崩す心理戦の成功例。
- 大坂の役の際、真田信繁が片倉重長の陣に対して矢文を送ったという話がある。自分の娘の婚姻の儀(片倉の後妻として)の申し入れ文を送ったとされる。
- 島原の乱の際、キリシタン南蛮絵師である山田右衛門作が矢文で幕府側と内通していたという話がある。
- 幕末を最後に矢文文化は廃れることとなる(廃れた一因として、通信手段の主流が機械化したことが挙げられる)。
日本以外の使用例
備考
- 「文挟(ふみはさみ)」といった棒状の杖の先に文書をはさみ、奉げる行為自体は、13世紀前半成立の『宇治拾遺物語』にもみられ、源頼信が平忠常を攻めた話(11世紀初め)の中に記述がある。この場合、身分差から直接の手渡しが不可能な(相手が騎乗していたり、輿の中で降りられない)状況のため、道中を狙う。このように、文書を棒状のものにくくり付ける発想(矢文の下地)自体は、日本でも中世前半から見られる。この文挟も、軍中にあって、近づけない状況下で使用されたが、矢文はより遠くの相手に届ける手段としては文挟より利便性があった。
- 紙ではないが、矢に直接文を刻んで放った例もあり、本間重氏は小刀で「相模国住人本間孫四郎重氏」と刻んだ矢を六町余り先にある足利尊氏軍の船に向かって放ったが、足利軍の弓達者が射返そうとしても届かなかったという話がある[12]。この場合、実力誇示のための行為といえるが、矢で文を伝達するという意味では14世紀からあったことがわかる。
脚注
- ^ 『広辞苑 第六版』岩波書店一部参考。
- ^ また、手投げ槍の場合、その重さから体力がいる点(矢だけを弦によって射る弓の方が体力はいらない)や材質の無駄遣いになりかねない(槍一本分の木材から矢が数本作れる点が挙げられる)等、不便であり、運用上、弓矢の方が利便性がある。投げやすいように改良された槍を用いるやり投の記録を見てわかるように、鍛えていても滅多に100mに達しない。
- ^ 本間重氏が矢に直接文を刻んて船上で放った例が見られる(備考も参照)。参考・『日本武術神妙記』 2016年 p.365
- ^ 『新訂 総合 国語便覧』 第一学習社 初版1978年 p.36
- ^ 弓矢は放物線を描く軌道は可能でも、伝書鳩のような障害物(流動体を含む)を避ける能力はないため。
- ^ パンフレット『国宝三十三間堂』によれば、一昼夜118.22mの距離を真っ直ぐ射続ける「通し矢」で和佐大八郎という18歳の少年が、総矢13053本中8133本を通したとされ、体力と精神力と腕に覚えがある者で、約120m6割の命中率(62%以下の命中率)。文を送る相手を選ばないのであれば、120mの距離は問題ない。備考として、現代製のアーチェリー・フライト競技で、1854.40m(1.8km以上)という飛距離の記録が1971年にH=ドレイクによって達成されており、障害物(流動体を含む)が無ければ、現代では1km先でも届く。
- ^ まず、木簡の場合、長文は無理といえる(紙のように薄くする必要があるが手間がかかる)。
- ^ 律令時代に矢文が行なわれていた場合、漢文ということになる。
- ^ 網野善彦 『海と列島の中世』 講談社学術文庫 2003年 ISBN 4-06-159592-X
- ^ 今谷明 『戦国時代の貴族』 講談社学術文庫 2002年 ISBN 4-06-159535-0
- ^ 『歴史人 5 2013 №32』 p.75
- ^ 中里介山 『日本武術神妙記』 角川ソフィア文庫 2016年 p.365