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彼は常々「女性は才知より容色に優れてねばならぬ」と[[曹洪|考えて]]おり、[[曹洪]]の娘は美人の誉が高かったので彼女を娶った。贅美を尽くした衣服や帷帳を誂え、彼女だけを愛し歓宴を尽くした。夫婦仲は極めて睦まじく、妻が熱病に罹ると己は中庭に飛び出し躯を冷やし妻に寄り添った。何年か後に妻が急死すると痛惜して止まず、1年余して彼も後を追う様に亡くなった。 |
彼は常々「女性は才知より容色に優れてねばならぬ」と[[曹洪|考えて]]おり、[[曹洪]]の娘は美人の誉が高かったので彼女を娶った。贅美を尽くした衣服や帷帳を誂え、彼女だけを愛し歓宴を尽くした。夫婦仲は極めて睦まじく、妻が熱病に罹ると己は中庭に飛び出し躯を冷やし妻に寄り添った。何年か後に妻が急死すると痛惜して止まず、1年余して彼も後を追う様に亡くなった。 |
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『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』には伝は立てられてはいないが、[[裴松之]]は荀彧伝に付せられた[[ |
『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』には伝は立てられてはいないが、[[裴松之]]は荀彧伝に付せられた[[荀惲]](荀粲の長兄)の記事に[[何劭]]が著した『荀粲伝』からの引用を元に荀粲に関する注を付している。 |
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== 脚注 == |
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2020年8月11日 (火) 05:08時点における版
荀粲 | |
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魏 | |
出生 |
建安14年頃 豫州潁川郡潁陰県 |
死去 | 青龍5年(237年) |
拼音 | Xún Càn |
字 | 奉倩 |
主君 | 曹丕→曹叡 |
荀 粲(じゅん さん、209年頃 - 237年[1])は、三国時代・魏の思想家。字は奉倩。豫州潁川郡潁陰県(現在の河南省許昌市)の人。荀彧の末子。
父・荀彧や兄・荀顗は儒家の学説に拠りつつ議論を進めたが、彼は道家の説を唱え「六経は聖人(孔子)の糠粃(残りかす)に過ぎない」と常に主張した。これを荀俁が「聖人は象(ショウ)を立て意味する物を究め、辞(コトバ)に拠り細かく表現し尽くしたとするなら、どうして聖人の真意を見聞できぬで事があろう」と批判すれば「深く潜んでいる道理は象で表せる物ではなく、(中略)象外の象や辞外の辞は奥深く蔵されていて現れない
反駁した。また礼法に即して行動した荀彧は、表面の態度を整えず慎み深く目立たぬ生きた荀攸に及ばぬとも主張した。
227年、洛陽に出て傅嘏・夏侯玄・裴徽らと親しく交際し、老子や荘子の説やその他論理学の議論を行った。荀粲の主張は何晏や王弼に引き継がれて清談や玄学の端緒となり、後世では南朝宋の袁粲が荀粲に憧れる余り、名と字を改めた逸話が知られている(『宋書』袁粲伝)。
彼は常々「女性は才知より容色に優れてねばならぬ」と考えており、曹洪の娘は美人の誉が高かったので彼女を娶った。贅美を尽くした衣服や帷帳を誂え、彼女だけを愛し歓宴を尽くした。夫婦仲は極めて睦まじく、妻が熱病に罹ると己は中庭に飛び出し躯を冷やし妻に寄り添った。何年か後に妻が急死すると痛惜して止まず、1年余して彼も後を追う様に亡くなった。
『三国志』には伝は立てられてはいないが、裴松之は荀彧伝に付せられた荀惲(荀粲の長兄)の記事に何劭が著した『荀粲伝』からの引用を元に荀粲に関する注を付している。
脚注
- ^ 生没年は『中国文化史大事典』「荀粲」より
参考文献
- 南澤良彦「荀粲」『中国文化史大事典』(大修館書店、2013年) ISBN 978-4-469-01284-2