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'''孫 家鼐'''(そん かだい、''Sun Jianai''、[[1827年]] ‐ [[1909年]])は、[[清]]の官僚。字は'''燮臣'''、号は'''容卿'''または'''蟄生'''、晩号は'''澹静老人'''。[[安徽省]][[寿県|寿州]]出身。
'''孫 家鼐'''(そん かだい、''Sun Jianai''、[[1827年]] ‐ [[1909年]])は、[[清]]の官僚。字は'''燮臣'''、号は'''容卿'''または'''蟄生'''、晩号は'''澹静老人'''。[[安徽省]][[寿県|寿州]]出身。


[[1859年]]、[[状元]]として[[進士]]となり、[[翰林院]]修撰となる。[[翁同ワ|翁同龢]]とともに[[光緒帝]]の帝師となり、光緒年間に工部・礼部・吏部尚書、[[体仁閣大学士]]・[[文淵閣大学士]]・[[武英殿大学士]]、查庫大臣、会試正考官、会典館正総裁を歴任した。
[[1859年]]、[[状元]]として[[進士]]となり、[[翰林院]]修撰となる。[[翁同龢]]とともに[[光緒帝]]の帝師となり、光緒年間に工部・礼部・吏部尚書、[[体仁閣大学士]]・[[文淵閣大学士]]・[[武英殿大学士]]、查庫大臣、会試正考官、会典館正総裁を歴任した。


[[1894年]]、朝鮮をめぐっての日本との緊張が高まると、妥協を主張して開戦に反対し、図らずも[[李鴻章]]と同じ見解となった。[[1898年]]に[[北京大学|京師大学堂]]が成立すると、初代の管学大臣に任命され、総教習も兼ねた。
[[1894年]]、朝鮮をめぐっての日本との緊張が高まると、妥協を主張して開戦に反対し、図らずも[[李鴻章]]と同じ見解となった。[[1898年]]に[[北京大学|京師大学堂]]が成立すると、初代の管学大臣に任命され、総教習も兼ねた。

2020年8月11日 (火) 04:50時点における版

孫家鼐

孫 家鼐(そん かだい、Sun Jianai1827年1909年)は、の官僚。字は燮臣、号は容卿または蟄生、晩号は澹静老人安徽省寿州出身。

1859年状元として進士となり、翰林院修撰となる。翁同龢とともに光緒帝の帝師となり、光緒年間に工部・礼部・吏部尚書、体仁閣大学士文淵閣大学士武英殿大学士、查庫大臣、会試正考官、会典館正総裁を歴任した。

1894年、朝鮮をめぐっての日本との緊張が高まると、妥協を主張して開戦に反対し、図らずも李鴻章と同じ見解となった。1898年京師大学堂が成立すると、初代の管学大臣に任命され、総教習も兼ねた。

日清戦争の敗北後、変法運動が高まると、孫家鼐も欧米諸国に学ぶことを主張した。しかし変法はあくまでも清朝の統治を維持するための道具であり、固有の制度は変えてはならないと指摘して、康有為梁啓超ら維新派とは見解を異にしていた。1898年戊戌の政変で変法運動は失敗に終わったが、孫家鼐の立場は温和なものであったために追及を免れた。

1907年溥倫とともに資政院総裁に任じられ、憲法制定と議会開設の調査にあたった。

1909年に病死し、太傅と文正の諡号が贈られた。

先代
祁世長
都察院漢左都御史
1890-1892
次代
徐郙
先代
祁世長
工部漢尚書
1892-1896
次代
許応騤
先代
李鴻藻
礼部漢尚書
1896-1897
次代
許応騤
先代
李鴻藻
吏部漢尚書
1897-1899
次代
徐郙
先代
鹿伝霖
礼部漢尚書
1900-1901
次代
徐郙
先代
徐郙
吏部漢尚書
1901
次代
張百熙