コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「李鴻藻」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 改名に伴うリンク修正依頼 (孫家鼐) - log
Cewbot (会話 | 投稿記録)
4行目: 4行目:
[[1844年]]に[[挙人]]、[[1852年]]に[[進士]]となり、[[翰林院]][[庶吉士]]に選ばれ、編修や河南学政を歴任した。[[1861年]]、[[咸豊帝]]の皇子載淳(後の同治帝)が学問を始める年齢になると、大学士[[彭蘊章]]の推薦で帝師となった。[[1865年]]に同治帝が即位すると[[内閣大学士]]・[[軍機大臣]]となり、[[1872年]]に工部尚書となった。[[1874年]]10月に同治帝の病が重くなると、皇帝に代わって奏摺に硃批を加えている。
[[1844年]]に[[挙人]]、[[1852年]]に[[進士]]となり、[[翰林院]][[庶吉士]]に選ばれ、編修や河南学政を歴任した。[[1861年]]、[[咸豊帝]]の皇子載淳(後の同治帝)が学問を始める年齢になると、大学士[[彭蘊章]]の推薦で帝師となった。[[1865年]]に同治帝が即位すると[[内閣大学士]]・[[軍機大臣]]となり、[[1872年]]に工部尚書となった。[[1874年]]10月に同治帝の病が重くなると、皇帝に代わって奏摺に硃批を加えている。


同治帝の後を継いだ[[光緒帝]]からも重用され礼部尚書・兵部尚書・吏部尚書を歴任し、[[翁同ワ|翁同龢]]と共に光緒帝を支えた。[[李鴻章]]の親族と誤解されやすいが血縁関係はなく、[[清仏戦争]]や[[日清戦争]]では主戦論を唱えるなど李鴻章とは政敵であった。死後、太子太傅と文正の[[諡号]]を贈られた。[[北京師範大学]]の校長を務めた[[李石曽]]は子にあたる。
同治帝の後を継いだ[[光緒帝]]からも重用され礼部尚書・兵部尚書・吏部尚書を歴任し、[[翁同龢]]と共に光緒帝を支えた。[[李鴻章]]の親族と誤解されやすいが血縁関係はなく、[[清仏戦争]]や[[日清戦争]]では主戦論を唱えるなど李鴻章とは政敵であった。死後、太子太傅と文正の[[諡号]]を贈られた。[[北京師範大学]]の校長を務めた[[李石曽]]は子にあたる。


{{先代次代|[[都察院]]漢左都御史|1871年 - 1872年|[[ホウ鍾ロ|龐鍾璐]]|[[桑春栄]]}}
{{先代次代|[[都察院]]漢左都御史|1871年 - 1872年|[[ホウ鍾ロ|龐鍾璐]]|[[桑春栄]]}}

2020年8月11日 (火) 04:49時点における版

李鴻藻

李 鴻藻(り こうそう、Li Hongzao1820年 - 1897年)は、末の政治家。同治帝の帝師。字は蘭孫直隷省高陽出身。

1844年挙人1852年進士となり、翰林院庶吉士に選ばれ、編修や河南学政を歴任した。1861年咸豊帝の皇子載淳(後の同治帝)が学問を始める年齢になると、大学士彭蘊章の推薦で帝師となった。1865年に同治帝が即位すると内閣大学士軍機大臣となり、1872年に工部尚書となった。1874年10月に同治帝の病が重くなると、皇帝に代わって奏摺に硃批を加えている。

同治帝の後を継いだ光緒帝からも重用され礼部尚書・兵部尚書・吏部尚書を歴任し、翁同龢と共に光緒帝を支えた。李鴻章の親族と誤解されやすいが血縁関係はなく、清仏戦争日清戦争では主戦論を唱えるなど李鴻章とは政敵であった。死後、太子太傅と文正の諡号を贈られた。北京師範大学の校長を務めた李石曽は子にあたる。

先代
龐鍾璐
都察院漢左都御史
1871年 - 1872年
次代
桑春栄
先代
毛昶熙
工部漢尚書
1872年 - 1877年
次代
賀寿慈
先代
沈桂芬
兵部漢尚書
1881年 - 1882年
次代
毛昶熙
先代
万青藜
吏部漢尚書
1882年 - 1884年
次代
徐桐
先代
畢道遠
礼部漢尚書
1887年 - 1896年
次代
孫家鼐
先代
徐桐
吏部漢尚書
1896年 - 1897年
次代
孫家鼐