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「陽原王」の版間の差分

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従来の[[魏晋南北朝|南北朝]]両面への通好の方針は取りやめられ、北朝の[[東魏]]・[[北斉]]のみへの[[朝貢]]を続け、南朝との交流は廃絶した。北斉からは[[550年]]に<使持節・侍中・驃騎大将軍・領護[[東夷校尉]]・遼東郡開国公・高句麗王>に冊封されている。
従来の[[魏晋南北朝|南北朝]]両面への通好の方針は取りやめられ、北朝の[[東魏]]・[[北斉]]のみへの[[朝貢]]を続け、南朝との交流は廃絶した。北斉からは[[550年]]に<使持節・侍中・驃騎大将軍・領護[[東夷校尉]]・遼東郡開国公・高句麗王>に冊封されている。


半島内三国の間では戦乱が多くあったが、[[新羅]]に領土を奪われる結果となることが多かった。[[548年]]には[[ワイ人|濊]]の兵を用いて[[百済]]の独山城<ref>独山城の比定地については[[忠清北道]][[忠州市]]とする説、[[忠清南道]][[礼山郡]]とする説、[[ソウル特別市]]の北方の山岳地とする説がある。</ref>を攻めるが、新羅の朱珍が救援に来たために退却した。550年には百済に道薩城([[忠清北道]][[槐山郡]])を陥落させられ、逆に百済の金峴城(忠清北道[[鎮川郡]])を攻撃しているあいだに二城とも新羅に奪われてしまった。[[551年]]には[[突厥]]が侵入してきて新城([[遼寧省]][[撫順市]])、次いで白巌城(遼寧省[[遼陽市]])を攻撃され、防戦して突厥を追い払ったものの、その間に新羅に十城を奪われた。かつての高句麗の外征の勢いは失われ、代わって新羅が勢力を増してきた。陽原王は新羅に対抗するために都城を強固なものにしようとして、[[552年]]に長安城([[平壌|平壌市]])の造成を開始した。同年、百済の熊川城([[忠清南道]][[公州市]]<ref>熊川城については[[京畿道]][[安城市 (京畿道)|安城市]]に比定する説もある。</ref>)を攻撃したが勝てなかった。さらに[[557年]]10月にはかつての首都の[[丸都城]]([[吉林省]][[集安市]])で、城主の干朱理が反乱を起こしている。乱は鎮圧されて干朱理は誅殺されたが、高句麗の国力が衰え、王権が動揺しているさまを否めなくなってきた。
半島内三国の間では戦乱が多くあったが、[[新羅]]に領土を奪われる結果となることが多かった。[[548年]]には[[濊]]の兵を用いて[[百済]]の独山城<ref>独山城の比定地については[[忠清北道]][[忠州市]]とする説、[[忠清南道]][[礼山郡]]とする説、[[ソウル特別市]]の北方の山岳地とする説がある。</ref>を攻めるが、新羅の朱珍が救援に来たために退却した。550年には百済に道薩城([[忠清北道]][[槐山郡]])を陥落させられ、逆に百済の金峴城(忠清北道[[鎮川郡]])を攻撃しているあいだに二城とも新羅に奪われてしまった。[[551年]]には[[突厥]]が侵入してきて新城([[遼寧省]][[撫順市]])、次いで白巌城(遼寧省[[遼陽市]])を攻撃され、防戦して突厥を追い払ったものの、その間に新羅に十城を奪われた。かつての高句麗の外征の勢いは失われ、代わって新羅が勢力を増してきた。陽原王は新羅に対抗するために都城を強固なものにしようとして、[[552年]]に長安城([[平壌|平壌市]])の造成を開始した。同年、百済の熊川城([[忠清南道]][[公州市]]<ref>熊川城については[[京畿道]][[安城市 (京畿道)|安城市]]に比定する説もある。</ref>)を攻撃したが勝てなかった。さらに[[557年]]10月にはかつての首都の[[丸都城]]([[吉林省]][[集安市]])で、城主の干朱理が反乱を起こしている。乱は鎮圧されて干朱理は誅殺されたが、高句麗の国力が衰え、王権が動揺しているさまを否めなくなってきた。


在位15年にして559年3月に死去し、陽原王と[[諡]]された。埋葬地については記述がない。
在位15年にして559年3月に死去し、陽原王と[[諡]]された。埋葬地については記述がない。

2020年8月11日 (火) 04:39時点における版

陽原王
各種表記
ハングル 양원왕
漢字 陽原王
発音 ヤンウォンワン
英語 Yangwon-wang
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陽原王(ようげんおう、生年不詳 - 559年)は、高句麗の第24代の王(在位:545年 - 559年)。姓は高、は平成。陽崗上好王(『三国史記』高句麗本紀・陽原王紀の分注)、陽崗王(『三国遺事』王暦)ともいう。先代の安原王の長子であり、『魏書』には「成」の名で現れる。533年に太子に立てられ、545年3月に先王が亡くなると王位に就いた。

日本書紀欽明天皇六年(545年)、同七年(546年)条には、逸書『百済本記』を引いて陽原王の即位には高句麗内部に内紛があったとする。香丘上王(ぬたのすおりこけ、安原王)には正夫人に子が無く、中夫人(第二夫人)の子を8歳で擁立して王(陽原王)とした。しかし小夫人(第三夫人)にも子があり、安原王が病に瀕すると、中夫人の実家の麁群と小夫人の実家の細群とが王位を争い、麁群が勝って、細群二千余人を皆殺しにしたという。ただし、『三国史記』の立太子記事(533年)と『百済本紀』8歳での即位(545年)とは相容れないところがある。

治世

従来の南北朝両面への通好の方針は取りやめられ、北朝の東魏北斉のみへの朝貢を続け、南朝との交流は廃絶した。北斉からは550年に<使持節・侍中・驃騎大将軍・領護東夷校尉・遼東郡開国公・高句麗王>に冊封されている。

半島内三国の間では戦乱が多くあったが、新羅に領土を奪われる結果となることが多かった。548年にはの兵を用いて百済の独山城[1]を攻めるが、新羅の朱珍が救援に来たために退却した。550年には百済に道薩城(忠清北道槐山郡)を陥落させられ、逆に百済の金峴城(忠清北道鎮川郡)を攻撃しているあいだに二城とも新羅に奪われてしまった。551年には突厥が侵入してきて新城(遼寧省撫順市)、次いで白巌城(遼寧省遼陽市)を攻撃され、防戦して突厥を追い払ったものの、その間に新羅に十城を奪われた。かつての高句麗の外征の勢いは失われ、代わって新羅が勢力を増してきた。陽原王は新羅に対抗するために都城を強固なものにしようとして、552年に長安城(平壌市)の造成を開始した。同年、百済の熊川城(忠清南道公州市[2])を攻撃したが勝てなかった。さらに557年10月にはかつての首都の丸都城吉林省集安市)で、城主の干朱理が反乱を起こしている。乱は鎮圧されて干朱理は誅殺されたが、高句麗の国力が衰え、王権が動揺しているさまを否めなくなってきた。

在位15年にして559年3月に死去し、陽原王とされた。埋葬地については記述がない。

脚注

  1. ^ 独山城の比定地については忠清北道忠州市とする説、忠清南道礼山郡とする説、ソウル特別市の北方の山岳地とする説がある。
  2. ^ 熊川城については京畿道安城市に比定する説もある。

参考文献