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「倭人」の版間の差分

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古くは[[戦国時代 (中国)|戦国]]から[[秦]][[漢]]期にかけて成立した『[[山海経]]』に、東方の海中に「[[黒歯国]]」とその北に[[扶桑]]国があると記され、倭人を指すとする説もある。また[[後漢]]代の[[1世紀]]ころに書かれた『[[論衡]]』に「倭」「倭人」についての記述がみられる。しかし、これらがの記載と日本列島住民との関わりは不明である。また『[[論語]]』にも「九夷」があり、これを倭人の住む国とする説もある。
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倭人についての確実な初出は[[75年]]から[[88年]]にかけて書かれた『[[漢書]]』地理志である。その後、[[280年]]から[[297年]]にかけて[[陳寿]]によって完成された『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』「魏書[[東夷伝]]倭人条」いわゆる『[[魏志倭人伝]]』では、倭人の生活習慣や[[社会]]の様態が比較的詳細に叙述され、生活様式や[[風俗]]・[[慣習]]・[[言語]]などの文化的共通性によって、「[[三韓|韓人]]」や「[[ワイ人|濊人]]」とは区別されたものとして書かれている。
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{{See also|魏志倭人伝}}
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3世紀末の[[280年]]から[[297年]]にかけて[[陳寿]]によって完成された『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』「魏書[[東夷伝]]」には、[[夫余]]・[[高句麗]]・[[東沃沮]]・[[ユウロウ|挹婁]]・[[濊]]・[[馬韓]]・[[辰韓]]・[[弁辰]]・倭人の9条が含まれる。倭人条には風俗・慣習について以下のように記されている。
*男子は大人も子供も区別なく皆が顔と体に文様を描いている(「[[入れ墨|鯨面文身]]」)。[[夏 (三代)|夏]]王朝の[[少康]]の子が[[会稽郡|会稽]]に封じられた際に、このようにして[[蛟竜|蛟龍]]の害を防いだ。文身は巨大な魚や水に棲む怪物を寄せ付けないためである。諸国の文身はそれぞれに異なる。
*男子は大人も子供も区別なく皆が顔と体に文様を描いている(「[[入れ墨|鯨面文身]]」)。[[夏 (三代)|夏]]王朝の[[少康]]の子が[[会稽郡|会稽]]に封じられた際に、このようにして[[蛟竜|蛟龍]]の害を防いだ。文身は巨大な魚や水に棲む怪物を寄せ付けないためである。諸国の文身はそれぞれに異なる。
*古くから中国に詣で、使者は皆自らを大夫と称している。
*古くから中国に詣で、使者は皆自らを大夫と称している。

2020年8月11日 (火) 04:37時点における版

倭人(わじん)は、

  1. 狭義には中国の人々が名付けた、当時、西日本に住んでいた民族または住民の古い呼称。
  2. 広義には中国の歴史書に記述された、中国大陸から西日本の範囲の主に海上において活動していた民族集団

一般に2.の集団の一部が西日本に定着して弥生人となり[1]、「倭人」の語が1.を指すようになったものと考えられている。

本項では、中国における派生的な蔑称についても扱う。

概要

古くは戦国から期にかけて成立した『山海経』に、東方の海中に「黒歯国」とその北に扶桑国があると記され、倭人を指すとする説もある。また後漢代の1世紀ころに書かれた『論衡』に「倭」「倭人」についての記述がみられる。しかし、これらがの記載と日本列島住民との関わりは不明である。また『論語』にも「九夷」があり、これを倭人の住む国とする説もある。

倭人についての確実な初出は75年から88年にかけて書かれた『漢書』地理志である。その後、280年から297年にかけて陳寿によって完成された『三国志』「魏書東夷伝倭人条」いわゆる『魏志倭人伝』では、倭人の生活習慣や社会の様態が比較的詳細に叙述され、生活様式や風俗慣習言語などの文化的共通性によって、「韓人」や「濊人」とは区別されたものとして書かれている。

5世紀南北朝時代の南朝の時代の432年元嘉9年)に范曄が書いた『後漢書』列伝巻85(東夷列伝)には1世紀中葉の記述として「倭の奴国」「倭国の極南界」、2世紀初頭の記述として「倭国王帥升」「倭国大乱」とあり、小国分立の状態はつづきながらも、政治的には「倭国」と総称されるほどのまとまりを有していたことが知られる。また南朝の史書には沈約(441年 - 513年)によって書かれた『宋書』倭国伝には倭の五王について書かれている。

656年顕慶元年)に完成した『隋書東夷伝には「九夷」「倭奴国」という記載がある。

945年に書かれた『旧唐書』、1060年に書かれた『新唐書』にも倭人に関する記述がある。

呼称の由来

日本列島に住む人々が「倭人」と呼称されるに至った由来にはいくつかの説がある。の官人如淳は「人面に入れ墨する(委する)」習俗をもって倭の由来と論じたが、臣瓚や顔師古らから、倭と委の音が異なることなどを理由に否定されている[2]平安時代初期の『弘仁私記』序はある人の説として、自称を「わ」(われ)としていたことから、中国側が倭の国と書きとめた、とする説を記している。

また、『説文解字』に倭の語義が従順とあることから、一条兼良が「倭人の人心が従順だったからだ」と唱え(『日本書紀纂疏』)、後世の儒者はこれに従う者が多かった。

また、「倭」は「背丈の小さい人種」を意味したという説もある。

木下順庵も、小柄な人びと(矮人)だから、倭と呼ばれた述べている。新井白石は『古史通或問』にて「オホクニ」の音訳が倭国であるとした。また作家の井沢元彦は「大陸の人間が彼らの国家名を聞いた時に、当時未だ国家概念が存在しなった彼らは、自身の帰属団体名を答えた、それが『』である」としている[3]。このように多くの説が立てられたが、定かなものはない。

「倭(委)奴国」を「倭の奴の国」と解釈することに異論もある。原文の「魏志倭人伝」を解釈した漢字の本家の学者の中には、古には「奴」という字に女性の蔑称の意味があり、女王国である倭を「倭奴国」と呼称し、中華思想による冊封国家、目下の国の倭国に対する蔑称みたいなものと捉えるべきである、という説である。 ただ遣隋使、遣唐使が行われるようになって、後世の中華思想国でも、そういった蔑称は次第に使われなくなった、と捉える見方である。

長江流域の「倭族」

倭・倭人を日本列島に限定しないで広範囲にわたる地域を包括する民族概念として「倭族」がある。鳥越憲三郎の説[4]では倭族とは「稲作を伴って日本列島に渡来した倭人、つまり弥生人と祖先を同じくし、また同系の文化を共有する人たちを総称した用語」である[5]。鳥越は『論衡』から『旧唐書』にいたる史書における倭人の記述を読解し、長江(揚子江)上流域の四川雲南貴州の各省にかけて、複数の倭人の王国があったと指摘した。その諸王国は例えば『史記』にある国名でいえば以下の諸国である。滇(てん)夜郎貴州省赫章県に比定され、現在はイ族ミャオ族ペー族回族などが居住)、昆明且蘭(しょらん)、(し)、キョウ都(現在の揚州市カン江区に比定)、重慶市)など[4][6][4]。鳥越は倭族の起源地を雲南省の湖滇池(滇池)に比定し、水稲の人工栽培に成功したとし、倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったとした[4]。分岐したと比定される民族には、イ族ハニ族 (古代での和夷に比定。またタイではアカ族[7])、タイ族ワ族[8]ミャオ族カレン族ラワ族などがある[9]。これらの民族間では高床式建物、貫頭衣注連縄などの風俗が共通するとしている[4]

この倭族論は長江文明を母体にした民族系統論といってよく、観点は異なるが環境考古学安田喜憲の長江文明論などとも重なっている。

「百越」としての倭人

「夷」「越人」としての倭人

諏訪春雄は倭族を百越の一部としている[10]。百越とは、長江・揚子江流域に住む諸々の種族の意で、春秋時代も含む(呉は現在の江蘇省、越は現在の浙江省一帯)。

岡田英弘は、倭国の形成について、現在のシンガポールマレーシアのような「中国系の移民(華僑)と、現地住民とのハイブリッド状態である、都市国家の連合体」であるとして、現在の中国人(漢人)自体も使用言語の共通があるだけで、起源はさまざまな民族がまじっていることから、「王朝末期の衰退がなければ、日本列島も『中国文明の一部』になった可能性が高い」とも述べている。岡田は中国古代王朝のやその後継といわれる河南省の禹県や杞県などを参照しながら、「夷(い)」とよばれた夏人が長江や淮河流域の東南アジア系の原住民であったこと、またの墓があると伝承される会稽山人の聖地でもあり、福建省広東省広西省からベトナムにかけて活動していた越人が夏人の末裔を自称していること、また顕王36年(前333年威王7年)越国に滅ぼされ越人が四散した後始皇帝28年(前219年)に琅邪(ろうや)を出発したといわれる徐福の伝承などを示した上で、後人が朝鮮半島に進出する前にこれら越人が日本列島に到着したのだろうと推定する[11]

呉人としての倭人

現在では、紀元前450年頃の、つまり春秋時代(「呉越同舟」で有名な呉越戦争の時代で、が滅亡した時期)の組織的な大規模な水田跡が九州で見つかっており、又、「倭人は周の子孫を自称した。」という記録もあることから、長江文明の象徴でもある水耕稲作文化の揚子江一帯の呉人が紀元前5世紀頃、呉王国滅亡とともに大挙して日本列島に漂着していたという説も有力になっている。春秋時代人は百越のひとつでもある。

宋書』楽志「白紵舞歌」というものがあり、その一節に「東造扶桑游紫庭 西至崑崙戯曽城」(東、扶桑に造りて紫庭に游び、西、昆崙に至りて曾城に戯る。[12])とある。この「(白)紵」というのはに産する織物であった。

近年、遺伝子分析技術の発達によって、筑紫地方(『日本書紀』の「国生み」)と、人は極めて関係が深いということが明らかになってきた(日本人#系統参照)。1999年3月18日、東京国立博物館で江南人骨日中共同調査団(山口敏団長)によって「江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、 歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較した結果、春秋時代人と前漢時代人は弥生人と酷似していた。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県太宰府隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致したと発表された。

日本書紀』の「国生み」での「筑紫」の国名の命名では、「漢委奴国王印」が発掘された志賀島一帯の地名香椎(カシ(現在は「かしい」)は、百越人地帯としての「越(コシ)」の訛りとされる。元明天皇の時代には、百越人の住む地帯を『古事記』でも「コシ(越)」と読んだことから、北九州で百越人の一部族である「(春秋時代の)人の住み着いた場所」とされる。また、「越」は山陰地方名として『日本書紀』の「国生み」で登場する。また、律令制度では越国越後越中能登加賀越前)として画定された。「越」は「高志」「古志」とも表記された[13]

人」も「人」も、どちらも「百越人」と呼ばれ長江文明の稲作水稲文明を日本にもたらした弥生人の一種といえ、春秋時代末期に「越」によって滅ぼされた「呉」の海岸沿いの住人たちには入れ墨の文化があり(荘子内篇第一逍遙遊篇)、これは魏志倭人伝などの倭人の風俗と類似したもので、呉人が海路、亡命して漂着したという説も有力である(安曇族も参照)。

崎谷満はY染色体ハプログループO1b1/O1b2系統を長江文明の担い手としている。長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東半島、日本列島へ渡ったとしており[14]、このO1b2系統が呉や越に関連する倭人と考えられる。

中国史書における倭人

『山海経』における記述

戦国から期にかけて成立した『山海経』の「海内北経」には倭人が中国東北部にあった国に属していたという記述があり、これは紀元前6世紀から紀元前4世紀頃のことと考えられている。しかし、同書は伝説集または神話集であり「架空国」が多く記述されており、詳細に乏しい。

黒歯国・扶桑

『山海経』第九 海外東經では、東方の海中に「黒歯国」があり、その北に扶桑が生える太陽が昇る国があるとされている。

この黒歯国については、他に『三国志』「魏書東夷伝倭人条」(『魏志倭人伝』)にも「去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可」(女王卑弥呼の国から4000余里に裸国と黒歯国がある。東南に船で一年で着く)と書かれている。『三国志』「魏書東夷伝倭人条」のこの記述は『山海経』の影響を受けていると考えられるが、黒歯国は女王の治める国の範囲外にあるとして記述されている。

また、黒歯国については、『梁書』にも記述[15]があり「其南有侏儒國 人長三四尺 又南黑齒國 裸國 去倭四千餘里 船行可一年至」(南に身長三四尺の民の国があって、その南に「黒歯国」がある。倭から4000余里。船で1年で着く)と書かれている。『梁書』も『山海経』の影響を受けていると考えられるが、「倭国」と「黒歯国」は異なる国という認識で書かれており、黒歯国の北の扶桑の生える国でないとは言ってない。尚、沖縄でも本島でも、既婚女性が歯を黒くする風習(お歯黒)は明治末まであった。

『論衡』における倭人

後漢代の1世紀ころに成立した王充著『論衡[16]』には「倭人」の名がみえる。以下に、本文を記す。

「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず

「成王時 越常獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢ず

「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。

このように倭人が王へ暢草(薬草)を献上したという記述があり、早ければ武王紀元前11世紀末頃、記述のある成王とすれば紀元前10世紀頃の出来事である可能性がある[17]。越裳(えつしょう)又は越常(えつじょう)はベトナムあたりにあった国とされている[18]

近年の倭人論ではこの鬯草(ちょうそう)をウコンではないかと推定し、ここで記述された倭人は日本列島の沿岸漁労民でなく、江南や華南の山人であったとする説もある[19]

『論語』の「九夷」

孔子論語にも倭ではないかともいわれる「九夷」について記載がある。

「子欲居九夷。或曰陋如之何。子曰。君子居之。何陋之有。 」

子、九夷に居らんと欲す。或ひと曰く、陋(ろう)なり。之を如何(いかん)と。子曰く、君子之に居す。何の陋か之あらんと。

孔子が(道義の廃れた国を厭うて)九夷(国)に住みたいと言った。ある人が、九夷は陋だがどうでしょうかと言うと、孔子は、君子が居る国なのだから、君子に対して従順な民を陋として問題視することはできないと応えた。 - 論語子罕第九

また、つぎのような記載もある。

子曰。道不行。乘桴浮于海。從我者其由與。子路聞之喜。

子曰く、道行なわれず、桴(いかだ)に乗りて海に浮ばん。我に従う者は其れ由(ゆう)かと。子路之を聞きて喜ぶ。

孔子が、道義が行われない。いかだに乗って、海外に行ってしまいたいが、〈その時に〉私について来る者は由(=子路)ぐらいのものだな、と言った。子路がこれを聞いて(孔子が多くの弟子の中から特に自分の名を挙げてくれたことを)喜んだ。 - 『論語』公治長第五

ここでの海外は、当時、など山東半島の南側地域から海に出て渡航できる国というのは当時としては『山海経』で紹介されている東の海(東シナ海)にある黒歯国やその北の扶桑の生える国つまり九夷とみられる。

『漢書』の倭

確実に日本列島の住民について記した最古の文献資料として後漢時代の章帝の治世下(75年 - 88年)に歴史家の班固班昭によって完成した『漢書』地理志がある。地の条には「夫れ楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云ふ」の記載がある。

「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、説(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆえ)有るかな。楽浪海中に「倭人」あり、 分かれて百余国をなし、 歳時をもって来たりて献見すと云う。

また地の条には「会稽海外に東鯷人有り。分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見すと云ふ」の記載があるが、東鯷人と倭人の関係は不明である。「鯷」(テイ)は大きなナマズを意味する。谷川健一は「わが列島の中に「東鯷人」の国を求めるとすれば、阿蘇山の周辺をおいてほかにないと私は考える」と記している[20]

『魏志倭人伝』にみる倭人の習俗

3世紀末の280年から297年にかけて陳寿によって完成された『三国志』「魏書東夷伝」には、夫余高句麗東沃沮挹婁馬韓辰韓弁辰・倭人の9条が含まれる。倭人条には風俗・慣習について以下のように記されている。

  • 男子は大人も子供も区別なく皆が顔と体に文様を描いている(「鯨面文身」)。王朝の少康の子が会稽に封じられた際に、このようにして蛟龍の害を防いだ。文身は巨大な魚や水に棲む怪物を寄せ付けないためである。諸国の文身はそれぞれに異なる。
  • 古くから中国に詣で、使者は皆自らを大夫と称している。
  • その風俗(社会生活の意味)は乱れてはいない。
  • 男子は皆頭をそって、頭には木綿をかぶり、その衣は横長でそれをただ束ね結わえて連ねて着るものでほとんど縫ってはいない。女子は髪を伸ばして髷をつくり、衣は一枚を被るようにその中央に穴をあけて頭を通して着る。
  • 紵麻を栽培し、桑で蚕を育てて絹を紡績し、糸や布を作る。
  • 牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない。
  • 兵器は木弓を用いる。木弓は下を短く上を長くし、竹の矢軸の鉄製骨製矢じりを用いる。
  • 有無するところ、儋耳、朱崖と同じ。
  • 倭地は温暖。
  • 生で食べ物を食べる。
  • 人の死に際しては棺はあっても槨のない、土で塚をつくる。
  • 人が死ぬと10日あまり、哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。喪主は激しく哭泣し、他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
  • 渡海して中国に詣でる際は常に一人を頭は櫛を通さずのいるまま衣服は汚れ放題、肉は食べず、婦人を近づけず、喪人のようにしておく。これの名を持衰という。もし途中で吉善があれば彼は他の人と共に生口や財物をねだることができ、もし疾病が発生したり暴害に遭えば、すなわち持衰が謹まなかったからだとしてこれを殺そうとする。
  • 真珠青玉を産出する。
  • 山にはがある。(植生についても述べられている。)
  • 骨を焼き吉凶を占う(太占)。
  • 集まりや座る順には父子男女の区別はない。
  • 酒を嗜む。
  • 長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
  • 女は慎み深い。
  • 国の大人は妬まず、盗みもなく、諍いや訴訟も少ない。
  • 法を犯す者は軽い者は妻子を没収し、重い者は門戸および宗族を没収する。
  • 尊卑が初めから決まっていて、大臣たちは服することに納得している。
  • 税を収奪する。邸(偉い人の広い居住屋敷)や閣(偉い人を招くための高い建物)といった豪華な建物がある。
  • 下戸は大人と道路で遭遇するとためらって草へと入り、あらたまった言葉を聞くときにはひざまづいて両手は地につけて恭順を示す。

ここに記された文化の諸特徴が、南方的要素の強いことはしばしば指摘されるところであり、民俗学的、文化人類学的、考古学的ないし歴史学的な論考の資料として重視されることが少なくない。

『後漢書』『宋書』の記述

5世紀南北朝時代の南朝の時代の432年元嘉9年)に范曄が書いた『後漢書』列伝巻85(東夷列伝)には1世紀中葉の記述として「倭の奴国」「倭国の極南界」、2世紀初頭の記述として「倭国王帥升」「倭国大乱」とあり、小国分立の状態はつづきながらも、政治的には「倭国」と総称されるほどのまとまりを有し、また、そのなかの一部の勢力は、直接、後漢皇帝朝貢したり、印章称号を得たりしていることが知られる。

ほか、南朝の史書には沈約(441年 - 513年)によって書かれた『宋書』列伝第五十七「夷蛮」には、林邑国扶南国師子国天竺高句驪国百済国倭国・荊雍州蛮・豫州蛮と、倭国伝があり、倭の五王について書かれている。

『隋書』の倭

656年顕慶元年)に完成した『隋書東夷伝には「九夷所居、與中夏懸隔、然天性柔順」(倭は九夷の居るとこである。・・・その天性は柔順である。)とあり、同『隋書』倭国伝には 「安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國」( 安帝の時(西暦106年-125年)、また遣使が朝貢、これを倭奴国という)とある。

『旧唐書』の倭国伝・日本国伝

945年に完成した『旧唐書』東夷伝の中には、日本列島について、「倭国伝」と「日本国伝」の二つが並立している。

旧唐書』倭国伝には「倭國者、古倭奴國也」 (倭国とは、古の倭奴国なり)とある。(奴国も参照)

『旧唐書』日本国伝[21]には「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地[22]」とあり、日本は倭国の別種であり、倭国という名前が雅ではないため日本に変えたという説と、小国であった日本が倭国を併合したという説があると記述している(代初頭の『太平御覧』にも同様に記載)。森公章は「日本」国号成立後の最初の遣唐使であった702年の派遣の際には国号変更の理由について日本側でも不明になっており、遣唐使が唐側に理由を説明することが出来なかったのでないかとする[23]大庭脩は「倭国伝」と「日本国伝」の間の倭国(日本)関連記事の中絶期間には、白村江の戦い及び壬申の乱が含まれており、当時の中国側には壬申の乱をもって「倭国(天智政権)」が倒されて「日本国(天武政権)」が成立したという見解があったとする。

中世

その後中世から近世にかけても、中国から大和民族を指す場合には「倭」と呼ぶことがあった(→例えば倭寇を参照)。この場合、琉球台湾などを含め「中国から東の海を隔てた土地から来る人々」を総称する漠然とした呼称でもあったようである。中世以後、日本国家に対しては、「」「倭国」、「日本」の他に、「扶桑」「扶桑国」という呼称もある。そのうち、以後、ではほとんど「日本」ないし「日本国」が用いられていた[要出典]

蔑称として

朝鮮における倭人の蔑称としての「倭奴」

高麗李氏朝鮮時代の書物において、日本は「倭」「倭奴」などと綴られている。1419年応永の外寇の後に日本に遣わされた文人宋希璟が、報告書とともに国王世宗にたてまつるために書いた詩文集『老松堂日本行録』の中で、日本人を「倭奴」と記している。

1763年の朝鮮通信使の一人だった元重挙が書いた『和国志』には日本語で「倭」と「」は同じ発音で、日本人も日本を和、あるいは倭と呼んでいるが、対馬島の人だけは倭と呼ばれることを嫌がると書かれている。

現代の蔑称としての「倭」

現代においては、中国韓国北朝鮮などでは、日本や日本人に対して侮蔑的な意味を込めて「倭」を用いることがある。また、侮蔑感を強めるために、中国では「倭寇」や「倭鬼」、韓国・北朝鮮では「ウェノム(倭놈)」などの表現がなされる場合があり、差別用語でもある[24]。たとえば韓国では小学生用の国語辞典でも「ウェノム」は載っており「日本人を罵っていう言葉」と注釈がある[25]。韓国の国会では、民主党のチョ・ギョンテ議員が「私は日本が好きではないので『倭人』と呼ぶ」と発言し、韓国メディアは「政治家の悪い口」と批判的に伝えたが、韓国Yahoo!上の調査では、これを「痛快な発言」としたユーザーが多数を占めた[26]

人類学的位置づけ

澤田洋太郎は倭人について、弥生人であり中国江南より水田稲作をもたらした集団とする[27]崎谷満は中国江南地域より稲作をもたらした集団はY染色体ハプログループO1b2に属すとしており[28]、倭人はY染色体ハプログループO1b2に属す集団であった可能性が高い。これはオーストロアジア語族(Y染色体ハプログループO1b1)と姉妹関係であり、日本語とオーストロアジア系カンボジア語の語彙類似性が高いとするデータ[29][30]とも符合する。

関連項目

脚注

  1. ^ 澤田洋太郎『日本語形成の謎に迫る』(新泉社、1999年)
  2. ^ 西嶋定生『倭国の出現』(東京大学出版会、1999)
  3. ^ 逆説の日本史
  4. ^ a b c d e 鳥越憲三郎『原弥生人の渡来 』(角川書店,1982)、『倭族から日本人へ』(弘文堂 ,1985)、『古代朝鮮と倭族』(中公新書,1992)、『倭族トラジャ』(若林弘子との共著、大修館書店,1995)、『弥生文化の源流考』(若林弘子との共著、大修館書店,1998)、『古代中国と倭族』(中公新書,2000)、『中国正史倭人・倭国伝全釈』(中央公論新社,2004)
  5. ^ 諏訪春雄編『倭族と古代日本』(雄山閣出版,1993)7-8頁
  6. ^ 三国志地名事典(索引)も参照
  7. ^ 『古代中国と倭族』(中公新書,2000)263頁
  8. ^ 『弥生文化の源流考』(若林弘子との共著、大修館書店,1998)
  9. ^ 中国の少数民族タイの民族
  10. ^ 諏訪春雄編『倭族と古代日本』(雄山閣出版、1993)また諏訪春雄通信100
  11. ^ 岡田英弘 1977, p. 13.
  12. ^ 原文の「崑崙」は山へん付である。
  13. ^ 越国参照
  14. ^ 崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』(勉誠出版 2009年) 
  15. ^ 『梁書』卷五十四 列傳第四十八の「諸夷傳 東夷条 倭」
  16. ^ 山田勝美著・田辺淳編『論衡』明治書院<新書漢文大系29> 2005 ISBN 4-625-66341-5 ほか平凡社東洋文庫にも抄訳あり。
  17. ^ 当時の日本列島は縄文時代晩期ないし弥生時代初期である
  18. ^ 佐々木高明『日本文化の多重構造−アジア的視野から日本文化を再考する』小学館,1997,p.112
  19. ^ 佐々木高明『日本文化の多重構造−アジア的視野から日本文化を再考する』小学館,1997,p.112。また長江文明および日本人参照
  20. ^ 『続・日本の地名』岩波新書 1998年 ISBN 4004305594 31頁
  21. ^ 「巻199上 列傳第149上 東夷」ウィキソース出典 劉昫 (中国語), 舊唐書/卷199上, ウィキソースより閲覧。 
  22. ^ ウィキソース出典 劉昫 (中国語), 舊唐書/卷199上#.E6.97.A5.E6.9C.AC, ウィキソースより閲覧。 
  23. ^ 森公章「大宝度の遣唐使とその意義」(初出:『続日本史研究』355号(2005年)/所収:森『遣唐使と古代日本の対外政策』(吉川弘文館、2008年))
  24. ^ 朝鮮語辞典(編集 小学館、金星出版社) ISBN 4095157011。韓国語・辞書にない俗語慣用表現(著 チョ・ヒチョル、白帝社) ISBN 4891745916オンライン辞書の「ウェノム」(倭놈)の項目 [リンク切れ]韓国辞書「倭奴」異文明圏韓国の小学生用国語辞典
  25. ^ 教学社『初等学生学習国語辞典』。 斗山出版『東亜初等新国語辞典』
  26. ^ 韓国国会議員が日本人を「倭人」と発言、ネットでは「痛快」が多数サーチナ 2011年8月20日
  27. ^ 澤田洋太郎『日本語形成の謎に迫る』(新泉社、1999年)
  28. ^ 崎谷満(2009)『DNA・考古・言語の学際研究が示す 新・日本列島史』勉誠出版
  29. ^ 安本美典 (1991)『日本人と日本語の起源』,東京:毎日新聞社
  30. ^ 安本美典 (1978)『日本語の成立』,東京:講談社

参考文献

  • 吉田孝『日本の誕生』(岩波新書、1997)ISBN 4004305101
  • 網野善彦『日本の歴史00 「日本」とは何か』(小学館、2000)ISBN 4062689006
  • 神野志隆光『「日本」とは何か』(講談社現代新書、2005)ISBN 4061497766
  • 田中琢『日本の歴史2 倭人争乱』集英社、1991年
  • 岡田英弘『倭国』中公新書、1977年
  • 森浩一編『日本の古代1 倭人の登場』中央公論社、1985年
  • 寺田薫『日本の歴史02 王権誕生』講談社、2000年
  • 諏訪春雄編『倭族と古代日本』雄山閣出版、1993年
  • 西嶋定生『倭国の出現』東京大学出版会、1999
  • 西嶋定生『邪馬台国と倭国』吉川弘文館、1994年
  • 井上秀雄『倭・倭人・倭国』人文書院、1991年
  • 松木武彦『列島創世記』小学館、2007年