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枢密院同知となり、数々の功績を挙げた。
枢密院同知となり、数々の功績を挙げた。


1363年7月、南昌の救援に向かい、[[ハ陽湖の戦い|鄱陽湖の戦い]]に参加した。丁普郎は身体に10余の傷を受け、首を取られてなお、直立した状態で亡くなった。敵兵は丁普郎を神であると驚き、畏れた。
1363年7月、南昌の救援に向かい、[[鄱陽湖の戦い]]に参加した。丁普郎は身体に10余の傷を受け、首を取られてなお、直立した状態で亡くなった。敵兵は丁普郎を神であると驚き、畏れた。


1364年4月、朱元璋の命により康郎山に忠臣祠が建てられ、鄱陽湖の戦いの戦死者35人が祀られた。丁普郎はその筆頭として祀られ、済陽郡公を追贈された。
1364年4月、朱元璋の命により康郎山に忠臣祠が建てられ、鄱陽湖の戦いの戦死者35人が祀られた。丁普郎はその筆頭として祀られ、済陽郡公を追贈された。

2020年8月11日 (火) 04:00時点における版

丁 普郎(てい ふろう、? - 1363年)は、末の軍人。朱元璋に仕えて、彼の勢力拡大に貢献した。

生涯

姓名 丁普郎
時代 元代
生没年 生年不詳 - 1363年至正23年)
字・別名 -
本貫・出身地 -
職官 枢密院同知(明)
爵位 済陽郡公(明)
諡号 -
陣営・所属 徐寿輝陳友諒朱元璋
家族・一族 -

1352年1月、徐寿輝の将として、徐明遠と共に漢陽、興国府を攻略した。

1361年8月、陳友諒の将として小孤山を守っていた。傅友徳と共に朱元璋に降伏した[1]

枢密院同知となり、数々の功績を挙げた。

1363年7月、南昌の救援に向かい、鄱陽湖の戦いに参加した。丁普郎は身体に10余の傷を受け、首を取られてなお、直立した状態で亡くなった。敵兵は丁普郎を神であると驚き、畏れた。

1364年4月、朱元璋の命により康郎山に忠臣祠が建てられ、鄱陽湖の戦いの戦死者35人が祀られた。丁普郎はその筆頭として祀られ、済陽郡公を追贈された。

脚注

  1. ^ 『明史』第1 本紀第1 太祖1、『続資治通鑑』巻第216によれば、朱元璋軍が安慶を攻略した後、丁普郎と共に、軍を率いて朱元璋に降ったと記されている。

参考文献

  • 『明史』 巻1 本紀第1 太祖1 
  • 『明史』 巻50 志第26 礼4 
  • 『明史』 巻133 列伝第21 趙徳勝 
  • 『明史紀事本末』 巻3 太祖平漢 
  • 『国初群雄事略』 巻3 徐寿輝 
  • 『国初群雄事略』 巻4 陳友諒 
  • 『続資治通鑑』 巻第210
  • 『続資治通鑑』 巻第216 
  • 『続資治通鑑』 巻第218