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2020年8月11日 (火) 03:36時点における版
- 前秦
- 秦→大秦[1]
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↓ 351年1月[1] - 394年10月[1] ↓
前秦と東晋-
公用語 漢語(中国語)、鮮卑語 首都 長安→晋陽→南安→胡空堡→湟中[2] -
先代 次代 氐
東晋
羌
前燕
前涼
代 (五胡十六国)後涼
西秦
後秦
北魏
西燕
後燕
前秦(ぜんしん、拼音: 、 351年 - 394年)は、中国の五胡十六国時代に氐族によって建てられた国。国号は単に秦だが、この秦を滅ぼして起こった西秦と後秦があるために前秦と呼んで区別する。
一時は華北を平定し中華統一を目指したが、南下して東晋に大敗。敗戦後に華北で諸国の自立と離反が相次ぎ滅亡した。
歴史
建国と苻健・苻生の時代
五胡の一つである氐族は現在の中国の甘粛省や陝西省に存在した民族で、五胡十六国時代には長安の西の武都郡や略陽郡を中心に、楊氏・呂氏・苻氏らの豪族を中心として台頭した[4]。
氐の族長苻洪は初め前趙の劉淵らに従っていたが、前趙が後趙に滅ぼされると後趙に従った。しかし後趙の石虎の死後に冉閔の反乱が起きると石遵の配下から離れて自立した[4]。苻洪は長安方面への復帰を目論むが、350年3月に石虎の旧臣だった軍師の麻秋に毒殺された[5]。
その後を継いだ三男の苻健は一時東晋に服属したが、当時長安で東晋の雍州刺史を自称して割拠していた杜洪を破って西進し、351年1月に東晋から独立して天王・大単于を称して皇始と建元し、長安を首都と定めて前秦を建国した[4][6]。苻健は352年1月に皇帝に即位したが、当時の前秦はまだ小国であった[6]。354年2月、東晋の征西大将軍桓温の北伐を受けて苦戦するが6月に撃退し、これを機に陝西一帯に勢力を張るようになった[6]。以後、前秦は後趙滅亡後の華北を鮮卑慕容部の建国した前燕と東西を二分する勢力へと成長した[4]。
355年6月の苻健の死により、第2代皇帝となった三男の苻生は356年2月に前涼を服属させ、357年5月には羌族の族長姚襄・姚萇兄弟と戦い、姚襄を殺害して姚萇を服属させるなど勢力を拡大した[6]。しかし、苻生は残忍・残虐な行為が多かったので、民心は離反し、357年6月に苻健の甥で自らの従弟である苻法と苻堅兄弟のクーデターにより弑されて、苻堅が第3代皇帝として即位した[4][6]。
華北の統一と全盛期
第3代皇帝として即位した苻堅は大秦天王と称した[7]。苻堅は明敏で博学多才な人物であり、漢人宰相の王猛を重用して内政の充実を図り、初代からの方針である重商主義から重農主義に転換して豪商を抑え、長安や関中の灌漑施設の復興や匈奴・鮮卑等の移民を展開して農業基盤を整備した[7]。一方で官僚機構の整備、法制の制定に努めて中央集権化を図った[7]。360年代半ばまで前秦は内政の充実や周辺諸国の外圧、さらに匈奴や羌の反乱や皇族間の内紛が相次いで勢力拡大は進まなかったが、368年までにこれらを全て片付けると対外政策に進んで外征を行ない、370年11月に前燕を[8]、371年4月に前仇池を滅ぼして遼東・中原を獲得した[9]。376年8月には前涼を滅ぼして涼州を平定し、さらに12月には代を滅ぼした[8][9]。これにより前秦は五胡十六国時代で唯一となる華北統一を達成した[10][9]。
この前秦の勢威に高句麗・新羅などは朝貢して服属し、華北の社会は安定し、人口は2300万人に達して前秦は全盛期を迎えた[9]。
南下の失敗と事実上の滅亡
華北統一に大きく貢献した王猛は375年に死去した[11]。王猛は生前から苻堅に対して東晋遠征を反対していたが、天下統一を目指す苻堅はこれを聞き入れずに378年2月に庶長子苻丕に命じて東晋領の襄陽を攻撃させて379年2月に落とさせたが、この時は東晋の謝玄の反撃を受けて建康攻撃には失敗した[12]。
383年8月、苻堅は南北統一を目指して群臣の反対を押し切り、総勢100万(90万とも)と号する東晋討伐の軍を起こした[8][13][14]。前秦軍は苻融の軍が寿春を落とすなど優勢だったが、漢族将軍でかつての東晋の梁州刺史朱序が「堅、敗れたり!」と叫んで苻堅を裏切り、さらに東晋軍の謝玄・謝石らに動揺した隙を突かれて大敗した[14]。苻堅は流れ矢に当たって負傷しながらも弟の苻融と共に鮮卑族の慕容垂の軍勢によって守られて敗走したが、苻融は戦死した(淝水の戦い)[14]。
苻堅は12月に長安に帰還したが、この敗戦による前秦の支配力の動揺は激しかった[15]。かつての前燕皇族であった慕容泓と慕容沖は華陰で関中の鮮卑を糾合して長安に迫った[14]。苻堅は慕容沖を破り、西燕を建国した慕容泓は6月に家臣に暗殺されるなどしてひとまずは沈静化した[16]。だが384年4月には慕容泓に敗北して罪に問われる事を恐れた姚萇が渭北の馬牧場(現在の陝西省咸陽市興平市の東)に逃亡して自立し、後秦を建国した[17]。またそれより少し前の1月には慕容垂が中山で自立して後燕を建国するなどした[18]。苻堅はこれらの勢力を鎮定するために各地に軍を派遣したが前秦軍は各地で敗北し、またこの混乱で長安の経済は破壊されて深刻な食糧不足に陥った[15]。
385年5月、苻堅は慕容沖の西燕の勢力拡大を恐れて長安を脱出し、五将山(現在の陝西省宝鶏市岐山県の北西)に逃れたが、7月に羌族の族長で後秦の姚萇に捕縛されて新平に連行されて禅譲を迫られた[15]。しかし苻堅は拒絶したため、8月に姚萇により殺害された[19]。この時をもって前秦は事実上滅亡した。
残党の抵抗と完全な滅亡
苻堅の死後、その庶長子で慕容垂の後燕と戦っていた長楽公苻丕は、後燕に敗れて長安に逃れる途上で父帝の死去を知り、晋陽で帝位を継いだ[19]。しかし苻堅の死去により前秦の将軍で西域の平定を任されていた呂光が後涼を[20]、乞伏国仁が西秦を[21]、代の皇族の生き残りである拓跋珪が北魏を建国するなど[22]、分裂がさらに進んで前秦の領域は河東方面に限定されるまでになった[19]。そして苻丕も王猛の遺児王永の助力を得て一時は勢力を拡大するが、後燕と西燕に挟まれて苦戦を強いられ、386年10月に西燕の慕容永に敗れて東垣にて東晋軍の攻撃を受けて殺された[19]。
現在の甘粛省東部にいた一族の苻登は386年11月に枹罕で第5代皇帝に即位し、後秦と戦い一時的に攻勢に転じたが、394年7月に後秦の姚興に滅ぼされて殺された[23]。同年、苻登の子であった苻崇は湟中に逃れて第6代の帝位を継いだが、10月に鮮卑乞伏部の西秦の乞伏乾帰に討たれ、前秦はこれをもって滅んだとされている[23]。
社会
政治
苻堅にはもともと漢学の素養があったため、王猛を重用して漢族伝統の治政方針を採用した[10]。中国古代において政治を遂行したとされる明堂を建設したり、漢族王朝において最も重要な祭祀とされる都の南で行なう儀礼を断行し、皇帝が行なう農耕儀礼である籍田の親耕を行ない、その后に養蚕の礼を行なわせるなど、中国における伝統的国家儀礼を相次いで導入した[24]。前燕を滅ぼして中原の覇者になると苻堅の儒教的理念を用いた国家建設と風俗の整斉はさらに熱を帯びるようになり、曹魏や西晋時代における士族階級の戸籍を復活した上で彼らを前秦王朝に向けて人心収攬する事に勤めた[24]。
統治機関
苻堅は当時混乱していた華北統一のため、諸民族融合政策を採用した。すなわち自らが征服した鮮卑や羌などを都の周辺に移住せしめて重用し、自らの族である氐を中央から新たに支配領域となった地域へと移住させた[24]。この政策は前秦の根幹を成す氐の集団としての紐帯を弱体化させ、結果的に前秦王朝解体へとつながる事になった[25]。王猛や苻融はその事を認識して苻堅を諌めたが聞き入れられなかった[26][25]。
ただ、当時の五胡政権に共通して言える事であるが、彼らの王権は一君万民的な構造によって成立していたわけではなく、王族や部族長によって率いられた諸集団の連合政権として成立していた[27]。前秦の場合は氐を中核として匈奴や鮮卑を支配し、さらに漢族を支配するという連合国家として成立しており、王権を強化しようとしてもその成長を阻害する要因が数多く存在していたのである[27]。ましてや苻堅の場合は現状維持ではなく積極的な勢力拡大に出たため、当然新たな支配地からの人材や税収、軍事力に資源の獲得は王権の強化のためには必要不可欠であり、そのためにあえて民族融合策を採用していたといえる[27]。とはいえ前秦が滅ぼした旧国の皇族に要職や一軍を与えたため、前秦の中枢部にすら疑問を感じる者が多かったという[26]。
前秦の皇帝
- 苻洪は高祖によって太祖恵武帝と追号された。
- 350年、苻洪は三秦王を自称した。
- 350年、苻健は三秦王を自称したが、同年に東晋に降り、王号を称することを止めた。
- 351年1月、苻健は天王・大単于を号した[6]。
- 352年1月、苻健は皇帝を称した[6]。以後、苻堅が大秦天王と号したのを除いて[7]、歴代君主は皇帝を称した。
- 高祖景明帝(苻健、在位:352年 - 355年)
- 廃帝厲王(苻生、在位:355年 - 357年)
- 世祖宣昭帝(苻堅、在位:357年 - 385年)
- 哀平帝(苻丕、在位:385年 - 386年)
- 太宗高帝(苻登、在位:386年 - 394年)
- 末帝(苻崇、在位:394年)
元号
- 皇始(351年 - 355年)
- 寿光(355年 - 357年)
- 永興(357年 - 359年)
- 甘露(359年 - 364年)
- 建元(365年 - 385年)
- 太安(385年 - 386年)
- 太初(386年 - 394年)
- 延初(394年)
脚注
- ^ a b c 三崎 2002, p. 151.
- ^ 三崎 2002, p. 184.
- ^ 三崎 2002, p. 175.
- ^ a b c d e 川本 2005, p. 87.
- ^ 三崎 2002, p. 89.
- ^ a b c d e f g 三崎 2002, p. 90.
- ^ a b c d 三崎 2002, p. 91.
- ^ a b c 山本 2010, p. 95.
- ^ a b c d 三崎 2002, p. 92.
- ^ a b 川本 2005, p. 88.
- ^ 三崎 2002, p. 93.
- ^ 三崎 2002, p. 94.
- ^ 川本 2005, p. 92.
- ^ a b c d 三崎 2002, p. 95.
- ^ a b c 三崎 2002, p. 97.
- ^ 三崎 2002, p. 102.
- ^ 三崎 2002, p. 114.
- ^ 三崎 2002, p. 104.
- ^ a b c d 三崎 2002, p. 98.
- ^ 三崎 2002, p. 129.
- ^ 三崎 2002, p. 118.
- ^ 三崎 2002, p. 147.
- ^ a b 三崎 2002, p. 99.
- ^ a b c 川本 2005, p. 90.
- ^ a b 川本 2005, p. 91.
- ^ a b 三崎 2002, p. 100.
- ^ a b c 川本 2005, p. 93.
参考資料
- 『魏書』(列伝第八十三 臨渭氐苻健)
- 『晋書』(載記第十二 苻洪・苻健・苻生、載記第十三 苻堅上、載記第十四 苻堅下、載記第十五 苻丕・苻登)
- 川本芳昭『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』講談社〈中国の歴史05〉、2005年2月。
- 三崎良章『五胡十六国 中国史上の民族大移動』東方書店、2002年2月。
- 山本英史『中国の歴史』河出書房新社、2010年10月。
- 蒋福亜『前秦史』北京師範学院出版社、1993年。
関連項目
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