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「夜郎」の版間の差分

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建国の時期は明らかにされていないが、考古学の研究により[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]には存在していたとするのが一般的である。また、夜郎に関する最後の記録は、[[前漢]]末期に漢の[[ソウカ郡|{{読み仮名|牂牁|そうか}}]]太守<ref>《漢書・西南夷兩粵朝鮮傳》:「大將軍鳳於是薦金城司馬陳立爲牂柯太守。」</ref>[[陳立 (前漢)|陳立]]に夜郎王の興が斬首され殺された<ref>《漢書・西南夷兩粵朝鮮傳》:「興將數千人往至亭,從邑君數十人入見立。立數責,因斷頭。」</ref>、というもので、その直後の[[紀元前1世紀|紀元前27年]]前後に滅亡したと考えられている。
建国の時期は明らかにされていないが、考古学の研究により[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]には存在していたとするのが一般的である。また、夜郎に関する最後の記録は、[[前漢]]末期に漢の[[ソウカ郡|{{読み仮名|牂牁|そうか}}]]太守<ref>《漢書・西南夷兩粵朝鮮傳》:「大將軍鳳於是薦金城司馬陳立爲牂柯太守。」</ref>[[陳立 (前漢)|陳立]]に夜郎王の興が斬首され殺された<ref>《漢書・西南夷兩粵朝鮮傳》:「興將數千人往至亭,從邑君數十人入見立。立數責,因斷頭。」</ref>、というもので、その直後の[[紀元前1世紀|紀元前27年]]前後に滅亡したと考えられている。


『[[史記]]』では夜郎は当時の西南地区における最大の国家であり<ref>[[司馬遷]]《史記・西南夷列傳》:「西南夷君長以什數,夜郎最大。」</ref>、[[武帝 (漢)|武帝]]が[[南越国]]討伐に{{仮リンク|唐蒙 (漢朝)|zh|唐蒙 (汉朝)|label=唐蒙}}を派遣した際、その地で当時[[蜀郡]](現在の[[四川省]])で産出された{{読み仮名|枸醤|こうしょう}}が夜郎よりもたらされたことを知り、南越国を牽制する目的で使節を派遣、現地に郡県を設置し、夜郎王族を県令に任じることとした。その漢の使者と面会した夜郎王が「漢孰與我大」(漢と我といずれが大なるか)と尋ねたことより<ref>『[[史記]]』および『[[漢書]]』では、漢の使節に対して「漢孰與我大」と発言したのは[[テン (中国史)|滇]]王とされている。ただし、夜郎侯にも同様の発言があったという。《史記・西南夷列傳》:「滇王與漢使者言曰:「漢孰與我大?」及夜郎侯亦然。」《漢書・西南夷兩粵朝鮮傳》:「滇王與漢使言:「漢孰與我大?」及夜郎侯亦然。」</ref>、「世間知らずで、自信過剰」を表す「'''夜郎自大'''」(夜郎自らを大なりとす)の故事成語が誕生した。漢による郡県の設置は南越国滅亡後にようやく実施され、夜郎による漢への入朝も行われ、武帝は夜郎王に封じている。
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[[河平]]2年([[紀元前27年|前27年]])、夜郎王興は反漢の挙兵を起こすが、漢軍に撃破され興は斬首され、その直後に滅亡したと考えられている。滅亡後は郡県が設置され、[[宋 (王朝)|宋代]]に至るまでしばしば'''夜郎県'''の名称が登場している。
[[河平]]2年([[紀元前27年|前27年]])、夜郎王興は反漢の挙兵を起こすが、漢軍に撃破され興は斬首され、その直後に滅亡したと考えられている。滅亡後は郡県が設置され、[[宋 (王朝)|宋代]]に至るまでしばしば'''夜郎県'''の名称が登場している。

2020年8月10日 (月) 07:06時点における版

紀元前210年帝国と周辺民族。

夜郎(やろう、拼音: Yèláng)、または夜郎国とは、『史記』西南夷列伝に記述される前漢末期まで存在した小国(前523年-前27年)の名前。現代の貴州省もしくは雲南省あたりにあったと思われる。

概要

夜郎の中心地は現在の貴州省赫章県可楽イ族ミャオ族郷中国語版であった。可楽遺址中国語版からは多くの夜郎時代の遺跡・遺物が発掘されている。

建国の時期は明らかにされていないが、考古学の研究により戦国時代には存在していたとするのが一般的である。また、夜郎に関する最後の記録は、前漢末期に漢の牂牁そうか太守[1]陳立に夜郎王の興が斬首され殺された[2]、というもので、その直後の紀元前27年前後に滅亡したと考えられている。

史記』では夜郎は当時の西南地区における最大の国家であり[3]武帝南越国討伐に唐蒙中国語版を派遣した際、その地で当時蜀郡(現在の四川省)で産出された枸醤こうしょうが夜郎よりもたらされたことを知り、南越国を牽制する目的で使節を派遣、現地に郡県を設置し、夜郎王族を県令に任じることとした。その漢の使者と面会した夜郎王が「漢孰與我大」(漢と我といずれが大なるか)と尋ねたことより[4]、「世間知らずで、自信過剰」を表す「夜郎自大」(夜郎自らを大なりとす)の故事成語が誕生した。漢による郡県の設置は南越国滅亡後にようやく実施され、夜郎による漢への入朝も行われ、武帝は夜郎王に封じている。

河平2年(前27年)、夜郎王興は反漢の挙兵を起こすが、漢軍に撃破され興は斬首され、その直後に滅亡したと考えられている。滅亡後は郡県が設置され、宋代に至るまでしばしば夜郎県の名称が登場している。

脚注

  1. ^ 《漢書・西南夷兩粵朝鮮傳》:「大將軍鳳於是薦金城司馬陳立爲牂柯太守。」
  2. ^ 《漢書・西南夷兩粵朝鮮傳》:「興將數千人往至亭,從邑君數十人入見立。立數責,因斷頭。」
  3. ^ 司馬遷《史記・西南夷列傳》:「西南夷君長以什數,夜郎最大。」
  4. ^ 史記』および『漢書』では、漢の使節に対して「漢孰與我大」と発言したのは王とされている。ただし、夜郎侯にも同様の発言があったという。《史記・西南夷列傳》:「滇王與漢使者言曰:「漢孰與我大?」及夜郎侯亦然。」《漢書・西南夷兩粵朝鮮傳》:「滇王與漢使言:「漢孰與我大?」及夜郎侯亦然。」

関連項目