コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「東明聖王」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
45行目: 45行目:
朱蒙は友と共に扶余を出て東南へ逃走した。淹水(鴨緑江の東北)まで来たが橋がなく、追手を恐れた朱蒙は川に向かって「私は太陽の子で河伯の外孫である、今日逃走してきたが、追手がいよいよ迫っている、どうすれば渡れるか?」と言うと、魚や[[スッポン|鼈]]が浮かんで橋を作り、朱蒙らは渡ることができた。朱蒙らが渡り終わると魚達の橋は解かれ、追手は河を渡れなかった。
朱蒙は友と共に扶余を出て東南へ逃走した。淹水(鴨緑江の東北)まで来たが橋がなく、追手を恐れた朱蒙は川に向かって「私は太陽の子で河伯の外孫である、今日逃走してきたが、追手がいよいよ迫っている、どうすれば渡れるか?」と言うと、魚や[[スッポン|鼈]]が浮かんで橋を作り、朱蒙らは渡ることができた。朱蒙らが渡り終わると魚達の橋は解かれ、追手は河を渡れなかった。


更に逃げて卒本川へ至ると土地が肥沃で要害堅固なので、{{Lang|ko|紇}}升骨城(現在の桓仁満族自治県{{仮リンク|五女山城|zh|紇升骨城}})を築き都とした。[[前漢|漢]]の[[建昭]]2年([[甲申]]の年、西暦[[紀元前37年]])に国を建て「高句麗」と号した。即位直後から隣接する[[ワイ貊|{{Lang|ko|}}貊]](『三国史記』中の「靺鞨」は{{Lang|ko|濊}}貊を指す)の部落に対して略奪や破壊を繰り返すと、{{Lang|ko|濊}}貊は恐れて服属した。
更に逃げて卒本川へ至ると土地が肥沃で要害堅固なので、{{Lang|ko|紇}}升骨城(現在の桓仁満族自治県{{仮リンク|五女山城|zh|紇升骨城}})を築き都とした。[[前漢|漢]]の[[建昭]]2年([[甲申]]の年、西暦[[紀元前37年]])に国を建て「高句麗」と号した。即位直後から隣接する[[濊貊]](『三国史記』中の「靺鞨」は{{Lang|ko|濊}}貊を指す)の部落に対して略奪や破壊を繰り返すと、{{Lang|ko|濊}}貊は恐れて服属した。


=== 王位の継承 ===
=== 王位の継承 ===

2020年8月10日 (月) 06:42時点における版

東明聖王 高朱蒙
高句麗
初代王
東明王陵近くの東明聖王の石像
王朝 高句麗
在位期間 紀元前37年 - 紀元前19年
都城 升骨城
諡号 東明聖王
生年 紀元前58年
没年 紀元前19年9月
金蛙王
柳花夫人
陵墓 東明王陵
テンプレートを表示
『三国史記』に基づく初期高句麗王の系図

東明聖王(とうめいせいおう、トンミョンソンワン、朝鮮語: 동명성왕)は、高句麗の初代とされる王(在位:紀元前37年 - 紀元前19年)であり、東明王とも呼ばれる。『三国史記』高句麗本紀・東明聖王紀によると姓は朱蒙(しゅもう、チュモン)または鄒牟(すうむ、チュモ、朝鮮語: 추모)、衆解(しゅうかい、チュンヘ、朝鮮語: 중해)とされる[1]。『三国史記』新羅本紀・文武王紀では中牟王、『日本書紀天智天皇紀では仲牟王と書かれている。『三国史記』高句麗本紀・広開土王紀や百済本紀・義慈王紀によると、黄帝の孫の高陽氏、黄帝の曾孫の高辛氏の子孫であると称していた[2][3][4][5][6]扶余の7人の王子と対立し、卒本朝鮮語版(ジョルボン、現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県)に亡命して高句麗を建国した。

建国神話

「東明」を始祖にする建国神話・始祖伝説は、夫余・高句麗・百済に共通して見られる。『三国志』所引の東明王の扶余建国神話や日本の神武天皇東征伝説とも類似する。

特徴としては王の政治的権威の源泉を天に帰属させ、同時に農業生産を左右する河神の権威を主張することである。ここでは高句麗の建国神話を『三国史記』に基づいて記述する。扶余の建国神話については後述する。

天光受胎

朱蒙の母である柳花夫人(ユファ、黄河の水神河伯の娘)は、太白山の南を流れる優渤水にいたところ、扶余の金蛙王(きんあおう)と出会ったが、柳花の「遊びに出た先で、天帝の子を自称する解慕漱(かいぼそう、ヘモス)に誘われ付いて行くと中々帰して貰えず、両親一族の怒りを買ってしまい仕方なく此処に住んでいます」という話を疑った金蛙によって部屋へ閉じ込められていたところ、日光が柳花を照らし身を引いて避けても日光は追ってきて柳花を身篭らせ、やがて柳花は大きな卵を産んだ[7]

金蛙王は卵を犬や豚の傍に捨てさせるが、共にこれを食べなかった。路上へ捨てると牛馬がこれを避け、野原へ捨てると鳥が卵を抱いて守った。自ら割ろうとしても割れず、遂に母へ返した。柳花が暖め続けると卵が割れ、男の子が生まれた。それが朱蒙である。

国人との対立

「朱蒙」の名の由来は扶余の言葉で「の達人」と言う意味である。その名の如く7歳になると自ら弓を作り、矢を射ると百発百中だった。将来必ず異心を抱くとして扶余の人々は排除を望んだが、金蛙王は朱蒙を庇い馬の世話を命じた。

しかし、朱蒙が駄馬を良く世話して肥し駿馬には餌を与えず痩せ細らせることで王を駄馬に乗せ自らへ駿馬を賜らせることに成功し、また狩りへ出ると少ない射撃で多くの獣を傷付けたため、扶余の人々は再び朱蒙の暗殺を企てた。陰謀を察知した母の柳花が逃亡を促すと、友である烏伊(ヲイ)・摩離(マレ)・陝父朝鮮語版(センピョ)の3人(『魏書』高句麗伝では烏引(ヲヱン)・烏違(ヲイ)の2人)と共に逃亡した。

亡命と建国

朱蒙は友と共に扶余を出て東南へ逃走した。淹水(鴨緑江の東北)まで来たが橋がなく、追手を恐れた朱蒙は川に向かって「私は太陽の子で河伯の外孫である、今日逃走してきたが、追手がいよいよ迫っている、どうすれば渡れるか?」と言うと、魚やが浮かんで橋を作り、朱蒙らは渡ることができた。朱蒙らが渡り終わると魚達の橋は解かれ、追手は河を渡れなかった。

更に逃げて卒本川へ至ると土地が肥沃で要害堅固なので、升骨城(現在の桓仁満族自治県五女山城中国語版)を築き都とした。建昭2年(甲申の年、西暦紀元前37年)に国を建て「高句麗」と号した。即位直後から隣接する濊貊(『三国史記』中の「靺鞨」は貊を指す)の部落に対して略奪や破壊を繰り返すと、貊は恐れて服属した。

王位の継承

紀元前19年5月、子の類利(るいり、ユリ、後の瑠璃明王)がその母の礼氏とともに扶余から逃れてきた。これを喜んだ朱蒙は類利を太子とした。同年9月に40歳で死去し、龍山に葬られて号を東明聖王とされた。

建国の年

上述の通り、伝説では紀元前37年に建国したというが、実際には元鳳6年(紀元前75年)に玄菟郡が廃止された時、高句麗侯として自立したとみられている。紀元32年に高句麗侯は高句麗王に昇格したがこれは漢の朝廷から与えられた称号であり、自称としては伝説の通り紀元前37年に実質的に王であったとして問題ないと考えられている。『日本書紀』天智天皇紀では、668年の高句麗滅亡は仲牟王の建国からちょうど700年目であったとされ、逆算すると建国は紀元前32年となる。『新唐書』高麗伝、『唐会要』高句麗では高宗に問われた侍御史の賈言忠(賈曾の父、賈至の祖父)の言葉として、漢代の建国から滅亡まで900年とするが、王名は記していない。『三国史記』東明聖王本紀は上述のように建国を紀元前37年とする一方、宝蔵王本紀では新唐書と同様、漢代の建国から900年と記し、新羅本紀で文武王10年(670年)安勝を高句麗王に封じた冊命書では太祖の中牟王から800年と記している。

好太王碑(広開土王碑)では好太王は鄒牟王の17世とする。これを17世孫の意味にとると、『三国史記』高句麗本紀に広開土王は東明聖王の12世孫とあるのと比べて5世代も多い。そこで『三国史記』は新羅王室に連なる慶州金氏金富軾が編纂したものであり、新羅を持ち上げるために高句麗の建国年を新羅の自称建国年(実際には4世紀末から5世紀初頭)よりも後にしたと見る説もあったが、現在では碑文の17世は「17代目」の意味とするのが普通である[8]

夫余の建国伝説との比較

後漢書』夫余伝に見られる建国神話は、以下の通り。

昔、北方に索離国という国があり、王の婢が言われなく身籠ったため、王はこの婢を殺そうとした。婢は「天空に神聖なる気が立ちこめ、私に降り注いだために身籠ったのです」と答えた。王はこの婢を軟禁し、後に男子が生まれた。王はこの子を豚に食べさせようとして豚小屋の前に置いたが、案に相違して豚は息を吹きかけてその子を守ろうとし、死ぬことがなかった。王は今度は馬小屋に持っていったが、馬も同じようにその子を守ろうとした。王はこれは神意を表すものと思い、その母を許してその男子を東明と名づけた。東明は成長して弓術に優れたので、王は東明の勇猛振りを恐れて、これを殺そうと考えた。そこで東明は南方へ逃走し、掩淲水に至った。川に向かって東明が弓を射ると、魚や鼈が浮かんできて橋を作り、東明はこれに乗って渡り逃れることができた。そして夫余の地に至って王となった。

「夫余の始祖としての東明」の伝説は、古くは『論衡』吉験篇に見られる。また、『三国志』夫余伝が『魏略』からの孫引きとして伝えており、これらの史書の中の高句麗伝では、始祖伝説は見られない。『魏書』に至って夫余伝はなくなり、代わりに高句麗伝のなかで高句麗の始祖伝説が伝えられるようになった。その伝説の骨子は、元来の東明伝説(夫余の建国神話)に、河伯(水神)の外孫であること、卵生であること、という要素が加わって、高句麗が夫余から出たこと、名を朱蒙とするというものである。また、東明伝説において東明が弓術に優れていたとするのと呼応するように、「朱蒙」という語は「善射」を意味する、とも書かれる。後に高麗の時代になって、『三国史記』では、高句麗の始祖を「諱が朱蒙、諡が東明聖王」とするようになり、李奎報の叙事詩『東明王篇朝鮮語版』においても、高句麗の始祖を東明王と同一視するようになった。さらに『三国遺事』では民族的統合の象徴として檀君に系譜化され、「東明王である朱蒙は檀君の子である」とされるようになったと考えられている。

夫余の東明伝説と高句麗の朱蒙伝説との共通構造は、両者の民族的同一性を表している。しかしこれらの始祖伝説を同一とはみなさず、高句麗の始祖伝説に卵生型説話の要素を含むことや、広開土王碑文や『魏書』高句麗伝に「東明」の表現が見られないことなどから、東明伝説の構成を元に高句麗独自の要素を加えた始祖伝説が創られ、後の『三国史記』において東明聖王と朱蒙とが同一視されたとする説もある。

陵墓

平壌にある東明王陵

東明聖王の陵墓は平壌市中心部から東方25Kmの地点に推定陵墓が存在し、東明王陵中国語版と称されている。世界文化遺産高句麗古墳群の構成古墳である。元来は集安にあったものを427年の平壌遷都とともに遷された。陵墓は1辺32m、高さ11.5mであり、周囲には中門、祭祀堂、石像などが設けられている。玄室内部には29種の壁画が描かれている。1993年5月14日金日成の指示により整備が行われ、敷地面積約220ha、王陵区域、定陵寺区域、陪墳区域が整備された。

登場作品

脚注

  1. ^ 高句麗語声調があったかわからないが、中国語ベトナム語において「蒙」字は平声東韻で、「解」字は上声蟹韻で読まれている。
  2. ^ 金光林 (2014). A Comparison of the Korean and Japanese Approaches to Foreign Family Names. Journal of Cultural Interaction in East Asia Vol.5 東アジア文化交渉学会. http://www.sciea.org/wp-content/uploads/2014/05/03_JIN.pdf p30
  3. ^ 国史編纂委員会. 三國史記 卷第二十八 百濟本紀 第六. 国史編纂委員会韓国史データベース. http://db.history.go.kr/item/level.do?setId=1&itemId=sg&synonym=off&chinessChar=on&position=0&levelId=sg_028_0020_0430 
  4. ^ 国史編纂委員会. 三國史記 卷第十八 高句麗本紀 第六. 国史編纂委員会韓国史データベース. http://db.history.go.kr/item/level.do?sort=levelId&dir=ASC&start=1&limit=20&page=1&setId=2&prevPage=0&prevLimit=&itemId=sg&types=&synonym=off&chinessChar=on&levelId=sg_018_0050_0170&position=1 
  5. ^ ネイバー知識検索 원문과 함께 읽는 삼국사기 의자왕 義慈王. 韓国人文古典研究所. http://terms.naver.com/entry.nhn?docId=1642804&cid=49625&categoryId=49800&mobile#TABLE_OF_CONTENT18 
  6. ^ ネイバー知識検索 원문과 함께 읽는 삼국사기 광개토왕 廣開土王. 韓国人文古典研究所. http://terms.naver.com/entry.nhn?docId=1642754&cid=49625&categoryId=49799&mobile 
  7. ^ 高句麗など鳥を崇拝していた民族では、卵が神聖なものとされた
  8. ^ そうすると『三国史記』は広開土王が第19代であるとしているので今度は逆に2代も少ない。これについて、『三国史記』の系譜伝承は何段階にもわかれて形成されたと推定されているが広開土王の時代にはまだ後世の『三国史記』の系譜伝承が完成しておらず、次大王と新大王が追加されていなかったと考えられている。

参考文献

  • 『三国史記』高句麗本紀
  • 『日本書紀』天智天皇紀
  • 『魏書』東夷伝高句麗
  • 武田幸男編 編『朝鮮史』山川出版社〈新版世界各国史2〉、2000年。ISBN 4-634-41320-5