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宣帝の代に既に弱体化していた北周であるが、静帝の代には[[申州]][[刺史]]の[[李恵 (北周)|李恵]]や皇族の邵国公[[宇文冑]]([[宇文顥]]の長男の宇文什肥の子)などが挙兵し、国内に混乱が見られた。事態を収拾できない静帝は[[大定 (北周)|大定]]元年([[581年]])2月に隋王楊堅に帝位[[禅譲]]を迫られ、北周は滅亡した。退位後の宇文闡は介国公に封じられたが、翌月に文帝楊堅により殺害された。享年9。 |
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==宗室== |
==宗室== |
2020年8月10日 (月) 06:39時点における版
静帝 宇文闡 | |
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北周 | |
第5代皇帝 | |
王朝 | 北周 |
在位期間 | 579年4月1日 - 581年3月4日 |
姓・諱 | 宇文衍→宇文闡 |
諡号 | 静皇帝(隋文帝による) |
生年 | 建徳2年(573年)6月 |
没年 |
開皇元年閏3月22日 (581年5月11日) |
父 | 宣帝 |
母 | 天皇后 |
后妃 | 司馬令姫 |
陵墓 | 恭陵 |
年号 |
大象 : 579年 - 580年 大定 : 581年 |
静帝(せいてい)は、北朝北周の第5代皇帝。姓は宇文、諱は闡(せん)。もとの諱は衍(えん)。
生涯
建徳2年(573年)6月、長安東宮に、皇太子であった宣帝宇文贇の長男として、后の一人朱満月を母として生まれた。大成2年(579年)1月、魯王に封ぜられて間もなく皇太子に立てられた。2月、わずか7歳で宣帝から譲位された。宣帝が天元皇帝を称したため、静帝は正陽宮を称した。幼少のため、嫡母の天元皇太后の父である丞相随国公の楊堅が輔弼した。
宣帝の代に既に弱体化していた北周であるが、静帝の代には申州刺史の李恵や皇族の邵国公宇文冑(宇文顥の長男の宇文什肥の子)などが挙兵し、国内に混乱が見られた。事態を収拾できない静帝は大定元年(581年)2月に隋王楊堅に帝位禅譲を迫られ、北周は滅亡した。退位後の宇文闡は介国公に封じられたが、翌月に文帝楊堅により殺害された。享年9。
宗室
后妃
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