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「楠本端山」の版間の差分

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[[廃藩置県]]で平戸藩から平戸県、ついで長崎県と改まる中で、端山の意見が容れられなくなるようになり、また健康状態もすぐれなかったことから、[[1881年]](明治14年)4月に官を辞して再び針尾島に帰った。翌[[1882年]](明治15年)8月、その地に碩水とともに「鳳鳴書院{{Efn|「鳳鳴」には治世となってから賢才が現れるという意味も持つ<ref name ="ライフさせぼ"/>。}}」を開設して子弟らを教育した<ref name="佐世保の歴史"/>。そこへは令名が高い端山の教えを乞おうと全国から多数の門人が集まった<ref>{{Cite web |url=http://www.geocities.jp/saseborekishi/tanzan.htm|title=楠本端山旧宅(くすもとたんざんきゅうたく)|accessdate=2015-10-2|date=2005-8|publisher=佐世保市教育研究会|archiveurl=https://archive.is/JS1WU|archivedate=2015-10-1}}</ref>。その門人の数は400名に登り{{Efn|端山、碩水兄弟の門人は私塾時代から含めると全体では千数百名に及ぶとされる<ref name="旅する長崎学"/>。}}、[[籠手田安定]]、[[宮崎八郎]]、[[沖禎介]]、[[菅沼貞風]]、[[菅沼周次郎]]などを輩出した<ref name="旅する長崎学"/><ref name="佐世保の歴史"/>。
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[[漢学者]]の[[三島中洲]]は[[北宋]]期の儒者であった[[程コウ|程顥]]と[[程頤]]の兄弟にたとえ、端山、碩水兄弟を「西海の二程」と賞している<ref name="旅する長崎学">{{Cite web |url=http://tabinaga.jp/column/view.php?category=2&hid=20140226200450&offset=2|title=平戸藩2|accessdate=2015-10-2|year=2014|work=旅する長崎学|publisher=長崎県文化振興課|archiveurl=https://archive.is/xGTgk|archivedate=2015-10-1}}</ref>。
[[漢学者]]の[[三島中洲]]は[[北宋]]期の儒者であった[[程顥]]と[[程頤]]の兄弟にたとえ、端山、碩水兄弟を「西海の二程」と賞している<ref name="旅する長崎学">{{Cite web |url=http://tabinaga.jp/column/view.php?category=2&hid=20140226200450&offset=2|title=平戸藩2|accessdate=2015-10-2|year=2014|work=旅する長崎学|publisher=長崎県文化振興課|archiveurl=https://archive.is/xGTgk|archivedate=2015-10-1}}</ref>。


1883年3月18日、[[中風]]により死去した。享年56。
1883年3月18日、[[中風]]により死去した。享年56。

2020年8月10日 (月) 06:33時点における版

楠本端山

楠本 端山(くすもと たんざん、1828年2月29日文政11年1月15日[1]) - 1883年明治16年)3月18日)は、江戸時代末期から明治時代にかけての儒学者。名は確蔵、のちに後覚、は伯暁、端山と号した[1]。弟は儒学者の楠本碩水。妻は近藤氏。

生涯

平戸藩の在郷藩士楠本忠次右衛門の長男として肥前国彼杵郡針尾島葉山(現長崎県佐世保市針尾中町)に生まれる[2]。幼時より学問好きで村内に住む近藤新右衛門について論語大学などの素読から始め、15歳の時に平戸の藩校維新館に留学した。

維新館で5年間学んだ後、平戸藩に出仕し計司局に勤める一方、九州各地に旅して広瀬淡窓草場佩川などの当時既に名の上がった学者と交わる。やがて、藩で重きをなしていた学者の葉山凱軒に認められ、1851年嘉永4年)に命により江戸に上り佐藤一斎大橋訥庵に学んだ[2][3]

1853年(嘉永6年)に父の病気により平戸に帰ると、ただちに維新館教授に任ぜられたが[2]、ほどなく藩校の教育内容の改革を巡り藩校内や藩上層部と対立したため[注釈 1]、教授を辞し針尾へ帰郷した[3]。約8年間を針尾島で過ごした後、藩主松浦詮からのたびたびの懇請により[注釈 2]、再び平戸に出て侍講として藩主の教授をし[2][3]、命により藩政にも参画し藩論を儒教を基とする尊王へと導いた[4]

1867年(慶応3年)に倒幕親征のため大阪に滞在中であった明治天皇に松浦詮が大学を進講した際、好評を得たことから、その教授である端山の名も全国に知られるようになった[2][3]。維新後、平戸藩権大参事に就き、「猶興書院」を開き学制を改め、また税を軽くして民生の安定を図るなどの藩政改革に廃藩まであたった[3]。この時期、西郷隆盛始め政府要人にもしばしば手紙をもって建言を行っている。

廃藩置県で平戸藩から平戸県、ついで長崎県と改まる中で、端山の意見が容れられなくなるようになり、また健康状態もすぐれなかったことから、1881年(明治14年)4月に官を辞して再び針尾島に帰った。翌1882年(明治15年)8月、その地に碩水とともに「鳳鳴書院[注釈 3]」を開設して子弟らを教育した[4]。そこへは令名が高い端山の教えを乞おうと全国から多数の門人が集まった[5]。その門人の数は400名に登り[注釈 4]籠手田安定宮崎八郎沖禎介菅沼貞風菅沼周次郎などを輩出した[3][4]

漢学者三島中洲北宋期の儒者であった程顥程頤の兄弟にたとえ、端山、碩水兄弟を「西海の二程」と賞している[3]

1883年3月18日、中風により死去した。享年56。

遺跡

  • 旧宅は現在も佐世保市針尾中町にあり、旧宅南方にある儒教式の墓所と合わせ「楠本端山旧宅と楠本家墓地土墳群7基」として1968年(昭和43年)12月23日に長崎県史跡に指定されている[6]

脚注

注釈

  1. ^ 端山はその頃の維新館の教えがもっぱら解釈や暗記に偏向していることを指摘し、人の徳を育みものの道理を知るという朱子学古来の姿に近づけるべく改革を唱えた[2]
  2. ^ 松浦詮は端山を厚く信頼していた[4]
  3. ^ 「鳳鳴」には治世となってから賢才が現れるという意味も持つ[2]
  4. ^ 端山、碩水兄弟の門人は私塾時代から含めると全体では千数百名に及ぶとされる[3]

出典

  1. ^ a b 松崎賜、吉田仁士、林浩俊「楠本端山の世界-『端山先生遺書』詩 訳注(その一)」『都城工業高等専門学校研究報告』第36巻、2002年1月、29-40頁、ISSN 0286116XNAID 1100002141352015年10月2日閲覧 
  2. ^ a b c d e f g 幕末の儒学者 楠本端山 楠本端山の儒教式の墓”. ふたたび、佐世保の歴史を歩く。. ライフ企画社 (2004年7月). 2015年10月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年10月2日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 平戸藩2”. 旅する長崎学. 長崎県文化振興課 (2014年). 2015年10月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年10月2日閲覧。
  4. ^ a b c d 2 楠本端山、碩水と鳳鳴書院”. 佐世保の歴史. 佐世保市. 2004年6月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年10月2日閲覧。
  5. ^ 楠本端山旧宅(くすもとたんざんきゅうたく)”. 佐世保市教育研究会 (2005年8月). 2015年10月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年10月2日閲覧。
  6. ^ 長崎県学芸文化課. “楠本端山旧宅と楠本家墓地土墳群7基”. 長崎県の文化財. 長崎県. 2015年2月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年10月2日閲覧。

参考書籍

  • 長崎県立長崎図書館 編『郷土の先覚者たち―長崎県人物伝―』長崎県教育委員会、1968年。