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[[明和]]8年([[1771年]])、父の死去により跡を継ぐ。
[[明和]]8年([[1771年]])、父の死去により跡を継ぐ。


安永2年([[1773年]])9月12日、嗣子無くして27歳で死去し、跡を弟で養嗣子の[[稲葉正のぶ|正諶]]が継いだ。法号は純正院。
安永2年([[1773年]])9月12日、嗣子無くして27歳で死去し、跡を弟で養嗣子の[[稲葉正|正諶]]が継いだ。法号は純正院。





2020年8月5日 (水) 08:43時点における版

稲葉 正弘(いなば まさひろ、延享4年(1747年) - 安永2年9月12日1773年10月27日))は、山城国淀藩の第6代藩主。正成系稲葉家宗家10代。

第5代藩主・稲葉正益の長男。母は伊達吉村の娘。正室は松平容貞の娘員姫(輪光院)。子に娘(有馬誉純正室)。官位は従五位下、美濃守、佐渡守。通称は宇右衛門。

明和8年(1771年)、父の死去により跡を継ぐ。

安永2年(1773年)9月12日、嗣子無くして27歳で死去し、跡を弟で養嗣子の正諶が継いだ。法号は純正院。