「稲葉正益」の版間の差分
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第4代藩主・[[稲葉正親]]の長男。母は柴田某の娘([[稲葉正直]]の養女)。正室は[[伊達吉村]]の娘。継室は[[丹羽高寛]]の娘。子に[[稲葉正弘]](長男)、[[ |
第4代藩主・[[稲葉正親]]の長男。母は柴田某の娘([[稲葉正直]]の養女)。正室は[[伊達吉村]]の娘。継室は[[丹羽高寛]]の娘。子に[[稲葉正弘]](長男)、[[稲葉正諶]](次男)、稲葉正尹(三男)、[[仙石久功]](四男)、娘([[立花種周]]正室)、娘([[稲葉正峯]]正室)。初名は正甫。通称は大学。官位は従五位下、従四位下、[[内匠頭]]、[[丹後国|丹後]]守。 |
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享保18年([[1733年]])8月28日、将軍[[徳川吉宗]]にお目見えする。同年12月18日、従五位下内匠頭に叙任する。享保19年11月5日、父の死去により跡を継ぐ。延享4年([[1747年]])5月15日、[[奏者番]]に就任する。同年12月23日、[[寺社奉行]]の兼任となる。寛延3年([[1750年]])12月18日、従四位下に昇進する。ただし、奏者番兼寺社奉行は解任となる。宝暦6年([[1756年]])2月3日、[[淀城]]が焼失し、幕府から1万両を借用する。明和8年([[1771年]])9月28日、54歳で死去し、跡を長男の正弘が継いだ。法号は温良院。墓所は京都の妙心寺。 |
享保18年([[1733年]])8月28日、将軍[[徳川吉宗]]にお目見えする。同年12月18日、従五位下内匠頭に叙任する。享保19年11月5日、父の死去により跡を継ぐ。延享4年([[1747年]])5月15日、[[奏者番]]に就任する。同年12月23日、[[寺社奉行]]の兼任となる。寛延3年([[1750年]])12月18日、従四位下に昇進する。ただし、奏者番兼寺社奉行は解任となる。宝暦6年([[1756年]])2月3日、[[淀城]]が焼失し、幕府から1万両を借用する。明和8年([[1771年]])9月28日、54歳で死去し、跡を長男の正弘が継いだ。法号は温良院。墓所は京都の妙心寺。 |
2020年8月5日 (水) 08:43時点における版
稲葉 正益(いなば まさよし、享保3年(1718年) - 明和8年9月28日(1771年11月4日))は、山城淀藩の第5代藩主。正成系稲葉家宗家9代。
人物
第4代藩主・稲葉正親の長男。母は柴田某の娘(稲葉正直の養女)。正室は伊達吉村の娘。継室は丹羽高寛の娘。子に稲葉正弘(長男)、稲葉正諶(次男)、稲葉正尹(三男)、仙石久功(四男)、娘(立花種周正室)、娘(稲葉正峯正室)。初名は正甫。通称は大学。官位は従五位下、従四位下、内匠頭、丹後守。
享保18年(1733年)8月28日、将軍徳川吉宗にお目見えする。同年12月18日、従五位下内匠頭に叙任する。享保19年11月5日、父の死去により跡を継ぐ。延享4年(1747年)5月15日、奏者番に就任する。同年12月23日、寺社奉行の兼任となる。寛延3年(1750年)12月18日、従四位下に昇進する。ただし、奏者番兼寺社奉行は解任となる。宝暦6年(1756年)2月3日、淀城が焼失し、幕府から1万両を借用する。明和8年(1771年)9月28日、54歳で死去し、跡を長男の正弘が継いだ。法号は温良院。墓所は京都の妙心寺。